・・・あれで、もし背景などをもう少しくふうしてあれほど写実的にしなかったら、いっそう良い効果を得られはしなかったかと思われたのであった。 こういう新しいものを人形芝居に取り入れることについては異存のある人が多いようであるが自分はそうは思わない・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・ただ写楽の人物の顔の輪郭だけは、よほど写実的に進歩した複雑さを示していると同時に、純粋な線の音楽としての美しさを傷つける恐れがあるのを、巧妙に救助しているのは彼の絵に現われる手や指の曲線である。これが顔の線と巧みに均衡を保ってそのためにかえ・・・ 寺田寅彦 「浮世絵の曲線」
・・・ この二つの錯覚の場合は映画の写像の、客観的には不安全な写実能力が、いかに多く観客の頭の中に誘発される連想の補足作用によって助長されているかを示す実例として注意さるべきものかと思われるのである。 十三 「世界の終わり」と・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」
・・・しかし写実を目的としない劇的映画にも、もう少し自在に天然を取り入れることはできないか。おそらくこれはいくらでもできる可能性があるのであろう。なんの映画であったか忘れたが東洋物の場面の間に、毒蛇とマングースとの命がけの争闘を写したものをはさん・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ 戦争前の茶番がかった芝居には、それでも浅草という特種な雰囲気が漂っているものもたまには見られない事もなかったが、今ではそういう写実風の妙味は次第に失われて、脚色の波瀾と人物の活動とを主とする傾が早くも一つの類型をなしているようになった・・・ 永井荷風 「裸体談義」
・・・松、竹、梅、桜、蓮、牡丹の如き植物と、鶴、亀、鳩、獅子、犬、象、竜の如き動物と、渦巻く雲、逆巻く波の如き自然の現象とは、いずれも一種不思議な意匠によって勇ましくも写実の規定から超越して巧みに模様化せられ、理想化せられてある。われわれは今日春・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・人間の人間らしい所の写実をするのが自然主義の特徴で、ローマン主義の人間以上自己以上、殆んど望んで得べからざるほどの人物理想を描いたのに対して極めて通常のものをそのまま、そのままという所に重きを置いて世態をありのままに欠点も、弱点も、表裏とも・・・ 夏目漱石 「教育と文芸」
・・・デフォーは一種の写実家である。ロビンソンクルーソーを読んでテニソンのイノック・アーデンのように詩趣がないと云う。ここまではなるほどと降参せねばならぬ。しかしそれだからロビンソンクルーソーは作物にならないと云うのは歌麿の風俗画には美人があるが・・・ 夏目漱石 「作物の批評」
・・・趣味を自然に求め、手段を写実に取りし歌、前に『万葉』あり、後に曙覧あるのみ。 されば曙覧が歌の材料として取り来るものは多く自己周囲の活人事活風光にして、題を設けて詠みし腐れ花、腐れ月に非ず。こは『志濃夫廼舎歌集』を見る者のまず感ずるとこ・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・だって月宮に昇るとか、あるいは人も家もなき深山の絶頂に突っ立って、乱れ髪を風に吹かせながら月を眺めて居たというような、凄い趣向を考えたかもしれぬが、判者が碧梧桐というのだから先ず空想を斥けて、なるべく写実にやろうと考えた。これは特に当てこも・・・ 正岡子規 「句合の月」
出典:青空文庫