・・・坂田は毎夜傍に寝て、ふと松本のことでカッとのぼせて来る頭を冷たい枕で冷やしていた。照枝は別府へ行って死にたいと口癖だった……。 そうして一年経ち、別府へ流れて来たのである。いま想い出してもぞっとする。着いた時、十円の金もなかったのだ。早・・・ 織田作之助 「雪の夜」
・・・二十日ばかり心臓を冷やしている間、仕方が無い程気分の悪い日と、また少し気分のよい日もあって、それが次第に楽になり、もう冷やす必要も無いと言うまでになりました。そして、時には手紙の三四通も書く事があり、又肩の凝らぬ読物もして居りました。 ・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そんなことを思いながら彼はすぐにも頬ぺたを楓の肌につけて冷やしてみたいような衝動を感じた。「やはり疲れているのだな」彼は手足が軽く熱を持っているのを知った。「私はおまえにこんなものをやろうと思う。一つはゼリーだ。ちょっと・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 熔鉱炉を冷やしてかち/\にしてやるなんざ、なんでもねえこったからな。」「うむ、/\。」「いくら、鉱石が地の底で呻っとったってさ、俺達が掘り出さなきゃ、一文にもなりゃすめえ。」 だが、そういう者は、よほどうまく、かげにまわって喋・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・彼女はその静かさを山家へ早くやって来るような朝晩の冷しい雨にも、露を帯びた桑畠にも、医院の庭の日あたりにも見つけることが出来るように思って来た。「婆や、ちょっと一円貸しとくれや」 とある日、おげんは婆やに言った。付添として来た婆やは・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・屋根の上にも、庭の草木の上にも烈しく降りそそいだ。冷しい雨の音を聞きながら、今昔のことを考える。蚊帳の中へ潜り込んでからも、相川は眠られなかった。多感多情であった三十何年の生涯をその晩ほど想い浮べたことはなかったのである。 寝苦しさのあ・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・ゆうべ学校から疲れて帰り、さあ、けさ冷しておいたミルクでも飲みましょう、と汗ばんだ上衣を脱いで卓のうえに置いた、そのとき、あの無智な馬鹿らしい手紙が、その卓のうえに白くひっそり載っているのを見つけたのだ。私の室に無断で入って来たのに違いない・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・なにも一目盛の晩酌を、うらやましがる人も無いのに、そこは精神、吝嗇卑小になっているものだから、それこそ風声鶴唳にも心を驚かし、外の足音にもいちいち肝を冷やして、何かしら自分がひどい大罪でも犯しているような気持になり、世間の誰もかれもみんな自・・・ 太宰治 「禁酒の心」
・・・という生れて始めてのものを飲んで新しい感覚の世界を経験したのはよかったが、井戸端の水甕に冷やしてあるラムネを取りに行って宵闇の板流しに足をすべらし泥溝に片脚を踏込んだという恥曝しの記憶がある。 その翌年は友人のKと甥のRと三人で同じ種崎・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・ このようにして、作者は、ある特殊な人間を試験管に入れて、これに特殊な試薬を注ぎ、あるいは熱しまた冷やし、あるいは電磁場に置き、あるいは紫外線X線を作用させあるいはスペクトル分析にかける。そうしてこれらに対する反応によってその問題の対象・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
出典:青空文庫