・・・杉の梢が日を遮り、この径にはいつも冷たい湿っぽさがあった。ゴチック建築のなかを辿ってゆくときのような、犇ひしと迫って来る静寂と孤独とが感じられた。私の眼はひとりでに下へ落ちた。径の傍らには種々の実生や蘚苔、羊歯の類がはえていた。この径ではそ・・・ 梶井基次郎 「筧の話」
・・・ 道は随分暑かッたが森へ来て少し休むと薄暗い奥の方から冷たい風が吹いて来ていい心持になった、青葉の影の透きとおるような光を仰いで身体を横に足を草の上に投げ出してじっと向こうを見ていると、何という静かな美しい、のびのびした景色だろう! 僕・・・ 国木田独歩 「郊外」
・・・シックな、活動的な洋装の下にも決してこの伝統の保存と再現とを忘れるな、かわいた、平板な、冷たい石婦のような女になってはならぬ。生命の美と、匂いと、液汁とを失っては娘ではない。だが牢記せよ、感覚と肉体と情緒とを超越して高まろうとするあるものを・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・ メリメは、水のように冷たい。そして、カッチリ纒りすぎる位いまとまっている。常に原始的な切ったり、はったり、殺し合いをやったりする、ロマンティックなことばかりを書いている。どんなことでも、かまわずにさっさと書いて行く、冷たい態度が僕はす・・・ 黒島伝治 「愛読した本と作家から」
・・・途端に隙間を漏って吹込んで来た冷たい風に燈火はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯これ一瞬の事で前後はなかった。 屋外は雨の音、ザアッ。 大噐晩成先生はこれだけの談を親しい・・・ 幸田露伴 「観画談」
・・・どれほどの冷たい風が毎日この子の通う研究所あたりまでも吹き回している事かと。私はまた、そう思った。あの米騒動以来、だれしもの心を揺り動かさずには置かないような時代の焦躁が、右も左もまだほんとうにはよくわからない三郎のような少年のところまでも・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・灰色の天地に灰色の心で、冷たい、物凄い、荒んだ生を送って行くのが人生の本旨かとも思って見る。けれども今日までの私はまだどうもそれだけの思いきりもつかぬ。一方には赤い血の色や青い空の色も欲しいという気持が滅しない。幾ら知識を駆使して見てもこの・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・デイモンは、もう二、三分間もたてば冷たい死骸になってしまうのです。しかし彼は、その間際になっても、ピシアスは決してうそをついたのではない、ただ、やむをえない事情でおくれたのだと信じていました。 すると、そこへ、ピシアスがひょいとかえって・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・女房コンスタンチェが決闘の前夜、冷たいピストルを抱いて寝て、さてその翌朝、いよいよ前代未聞の女の決闘が開始されるのでありますが、それについて原作者 EULENBERG が、れいの心憎いまでの怜悧無情の心で次のように述べてあります。これを少し・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚の奥に隠れたあるものを見透す詩人創造者の眼である。眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。」「彼が壇上に立つと聴衆はもう・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫