わたしはすっかり疲れていた。肩や頸の凝るのは勿論、不眠症もかなり甚しかった。のみならず偶々眠ったと思うと、いろいろの夢を見勝ちだった。いつか誰かは「色彩のある夢は不健全な証拠だ」と話していた。が、わたしの見る夢は画家と云う・・・ 芥川竜之介 「夢」
・・・「こいつ、学校で、勉強盛りに、親がわるいと言うのを聞かずに、夢中になって、余り凝るから魔が魅した。ある事だ。……枝の形、草の影でも、かし本の字に見える。新坊や、可恐い処だ、あすこは可恐い処だよ。――聞きな。――おそろしくなって帰れなかっ・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・どれも赤い柱、白い壁が、十五間間口、十間間口、八間間口、大きなという字をさながらに、湯煙の薄い胡粉でぼかして、月影に浮いていて、甍の露も紫に凝るばかり、中空に冴えた月ながら、気の暖かさに朧である。そして裏に立つ山に湧き、処々に透く細い町に霧・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・紅に染め出でし楓の葉末に凝る露は朝日を受けねど空の光を映して玉のごとし。かれは意にもなく手近の小枝を折り、真紅の葉一つを摘みて流れに落とせば、早瀬これを浮かべて流れゆくをかれは静かにながめて次の橋の陰に隠るるを待つらんごとし。 この時青・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・僕は、このごろまた、ブランドを読み返しているのだが、どうも肩が凝る。むずかしすぎる。」率直に白状してしまった。「僕にやらせて下さい。僕に、」ろくろく考えもせず、すぐに大声あげて名乗り出たのは末弟である。がぶがぶ大コップの果汁を飲んで、や・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ウィリアムは盾に凝る血の痕を見て「汝われをも呪うか」と剣を以て三たび夜叉の面を叩く。ルーファスは「烏なれば闇にも隠れん月照らぬ間に斬って棄よ」と息捲く。シーワルドばかりは額の奥に嵌め込まれたる如き双の眼を放って高く天主を見詰めたるまま一言も・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・このごろは秋もふけて、深夜に外をあるくと、屋根屋根におく露が、明けがたのひとときは霜に凝るかと思うほどしげく瓦やトタンをぬれ光らせている。戦いに年が暮れるのだろうか。 この間二晩つづけて、東京には提灯行列があった。ある会があって、お濠端・・・ 宮本百合子 「祭日ならざる日々」
・・・静かな、学問に凝る、今は唯一の父様っ子です。母のロザリーに対しては、勿論実におだやかで親切ですが、彼女が求める率直な感情の吐露は欠けているように思われます。 ハフの不名誉な事件後ドラは愈々家におらなくなりました。それどころか、或る晩、ロ・・・ 宮本百合子 「「母の膝の上に」(紹介並短評)」
・・・常より物に凝るならい……いかにも怪しい体であッたが、さてもおれは心つきながら心せなんだ愚かさよ。慰め言を聞かせたがなおもなおおもいわびて脱け出でたよ。ああら由々しや、由々しいことじゃ」 心の水は沸え立ッた。それ朝餉の竈を跡に見て跡を追い・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫