・・・ 場所も方角も、まるで違うけれども、むかし小学校の時分、学校近所の……あすこは大川近の窪地だが、寺があって、その門前に、店の暗い提灯屋があった。髯のある親仁が、紺の筒袖を、斑々の胡粉だらけ。腰衣のような幅広の前掛したのが、泥絵具だらけ、・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
梅雨の頃になると、村端の土手の上に、沢山のぐみがなりました。下の窪地には、雨水がたまって、それが、鏡のように澄んで、折から空を低く駆けて行く、雲の影を映していました。私達は、太い枝に飛びついて、ぶら下りながら赤く熟したのから、もぎとり・・・ 小川未明 「果物の幻想」
・・・『ところでもっとも僕らの感を惹いたものは九重嶺と阿蘇山との間の一大窪地であった。これはかねて世界最大の噴火口の旧跡と聞いていたがなるほど、九重嶺の高原が急に頽こんでいて数里にわたる絶壁がこの窪地の西を回っているのが眼下によく見える。男体・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・南と北とを小高い石垣にふさがれた位置にある今の住居では湿気の多い窪地にでも住んでいるようで、雨でも来る日には茶の間の障子はことに暗かった。「ここの家には飽きちゃった。」 と言い出すのは三郎だ。「とうさん、僕と三ちゃんと二人で行っ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・崖に沿って垂直に下に落ちず、からだが横転して、崖のうえの窪地に落ち込んだ。窪地には、泉からちょろちょろ流れ出す水がたまって、嘉七の背中から腰にかけて骨まで凍るほど冷たかった。 おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。この・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・富士の美しく霞んだ下に大きい櫟林が黒く並んで、千駄谷の凹地に新築の家屋の参差として連なっているのが走馬燈のように早く行き過ぎる。けれどこの無言の自然よりも美しい少女の姿の方が好いので、男は前に相対した二人の娘の顔と姿とにほとんど魂を打ち込ん・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 摺鉢形の凹地の底に淀んだ池も私にはかなりグルーミーなものに見えた。池の中島にほうけ立った草もそうであった。汀から岸の頂まで斜めに渡したコンクリートの細長い建造物も何の目的とも私には分らないだけにさらにそういう感じを助長した。 ずっ・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・丘はだんだん下って行って小さな窪地になりました。そこはまっ黒な土があたたかにしめり湯気はふくふく春のよろこびを吐いていました。 一疋の蟇がそこをのそのそ這って居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。 それは早くもその蟇の・・・ 宮沢賢治 「若い木霊」
・・・段々近よって段々いやな思をさせる砂丘のはじから中の窪地を見ると、居た女は! 今日逢って何を云われるのか、自分に対してどんな考を持って居るか、 こんな事は、一向考えずと好い事なんだ、と云うようにのんきらしく棒のような足を二本つんと前に張っ・・・ 宮本百合子 「砂丘」
・・・白山の停留場に立っていると、昔から鶏声ケ窪と云われた窪地が今はじめて私たちの目の前に展開されている。窪地に廃墟が立ち、しかし樹木はこの初夏格別に美しい新緑をつけた。高低のあるこの辺の地勢は風景画への興味を動かすのである。ほんとうに、ことしの・・・ 宮本百合子 「田端の汽車そのほか」
出典:青空文庫