・・・ その内に筑波颪しがだんだん寒さを加え出すと、求馬は風邪が元になって、時々熱が昂ぶるようになった。が、彼は悪感を冒しても、やはり日毎に荷を負うて、商に出る事を止めなかった。甚太夫は喜三郎の顔を見ると、必ず求馬のけなげさを語って、この主思・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・そして一生懸命にめんかきをして、ようやく水の上に顔だけ出すことが出来ました。その時私たち三人が互に見合せた眼といったら、顔といったらありません。顔は真青でした。眼は飛び出しそうに見開いていました。今の波一つでどこか深い所に流されたのだという・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
・・・ クサカの芸当は精々ごろりと寝て背中を下にして、目を瞑って声を出すより外はない。しかしそれだけでは自分の喜びと、自分の恩に感ずる心とを表わすことが出来ぬと思った。それでふいと思い出したことがある。それは昔余所の犬のするのを見て、今までは・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ さては、暗の中に暗をかさねて目を塞いだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝と今度は腕を差出すようにしたが、それも手ばかり。 はッと俯向き、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・かねてここと見定めて置いた高架鉄道の線路に添うた高地に向って牛を引き出す手筈である。水深はなお腰に達しないくらいであるから、あえて困難というほどではない。 自分はまず黒白斑の牛と赤牛との二頭を牽出す。彼ら無心の毛族も何らか感ずるところあ・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・それにしても、思い出す度にぞッとするのは、敵の砲弾でもない、光弾の光でもない、速射砲の音でもない、実に、僕の隊附きの軍曹大石という人が、戦線の間を平気で往来した姿や。これが、今でも、幽霊の様に、また神さまの様に、僕の心に見えとるんや。」・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・ とは思うものの、二葉亭は舞台の役を振られて果して躍り出すだろう乎。空想はかなり大きく、談論は極めて鋭どかったが、率ざ問題にブツかろうとするとカラキシ舞台度胸がなくて、存外※咀思想がイツマデも抜け切らないで、二葉亭の行くべき新らしい世界・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチからも引き抜き、コッチからも引き抜いて、それを鋏刀と糊とでくッつけたような論文を出すから読まないのです。もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私はこれを大切にして年の終りになったら立派に・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・――王さまは、ここにはじめて、自らの力をたよることのいちばん安心なのを悟られ、あくる年から、赤い船を出すことを見合わせられたのであります。――一九二六・九―― 小川未明 「赤い船とつばめ」
・・・ね、酔ってるものだからヒョロヒョロして、あの大きな体を三味線の上へ尻餅突いて、三味線の棹は折れる、清元の師匠はいい年して泣き出す、あの時の様子ったらなかったぜ、俺は今だに目に残ってる……だが、あんな元気のよかった父が死んだとは、何だか夢のよ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫