・・・如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有かった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽を阿弥陀にしたまま、如丹と献酬を重ねては、不相変快活にしゃべ・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・……「十二月×日 靴下の切れることは非常なものである。実は常子に知られぬように靴下代を工面するだけでも並みたいていの苦労ではない。……「二月×日 俺は勿論寝る時でも靴下やズボン下を脱いだことはない。その上常子に見られぬように脚の先を・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・革紐が一本切れる。何だかしゅうというような音がする。フレンチは気の遠くなるのを覚えた。髪の毛の焦げるような臭と、今一つ何だか分からない臭とがする。体が顫え罷んだ。「待て。」 白い姿は動かない。黒い上衣を着た医者が死人に近づいてその体・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・、廓までは廻らぬから、次第々々に隙にはなる、融通は利かず、寒くはなる、また暑くはなる、年紀は取る、手拭は染めねばならず、夜具の皮は買わねばならず、裏は天地で間に合っても、裲襠の色は変えねばならず、茶は切れる、時計は留る、小間物屋は朝から来る・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ 困果と業と、早やこの体になりましたれば、揚代どころか、宿までは、杖に縋っても呼吸が切れるのでございましょう。所詮の事に、今も、婦に遣わします気で、近い処の縁日だけ、蝋燭の燃えさしを御合力に預ります。すなわちこれでございます。」 と・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・サッサッと鎌の切れる音ばかり耳に立ってあまり話するものもない。清さんはお袋と小声でぺちゃくちゃ話している。満蔵はあくびをしながら、「みんな色気があるからだめだ。省作さんがいれば、おとよさんもはま公も唄もうたわねいだもの」 満蔵は臆面・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・ あいつもこれまでに大分金をつぎ込んだ男だから、なかなか思い切れるはずはない、さ」「どんなに馬鹿だッて、そんなのろまな男はなかろうよ」「どうせ、おかみさんがやかましくッて、あたいをここには置いとけないのだから、たまに向うから東京へ出・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 当てもないままに、赤井はひょこひょことさまようていたが、やがて耳の千切れるような寒さにたまりかねたのか、わずかの温みを求めて、足は自然に難波駅の地下鉄の構内に向いた。 そして構内に蠢いている浮浪者の群れの中にはいった赤井は、背中に・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・を、僕らの文学の中へ呼び戻すために、まずモンテエニュあたりから勉強のし直しをはじめるとしても、しかし、今日僕らの文学の足音が少しは乱暴に高鳴っても、致し方はあるまい――ということだけは、今ここで言い切れると思う。・・・ 織田作之助 「土足のままの文学」
・・・身体の重心さえ失わなかったら滑り切れるだろうと思った。鋲の打ってない靴の底はずるずる赤土の上を滑りはじめた。二間余りの間である。しかしその二間余りが尽きてしまった所は高い石崖の鼻であった。その下がテニスコートの平地になっている。崖は二間、そ・・・ 梶井基次郎 「路上」
出典:青空文庫