・・・その別に取立てて云うほどの何があるでも無い眼を見て、初めて夫がホントに帰って来たような気がし、そしてまた自分がこの人の家内であり、半身であると無意識的に感じると同時に、吾が身が夫の身のまわりに附いてまわって夫を扱い、衣類を着換えさせてやった・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・「どうだ、初めての着工合は……」 と看守が云った。 俺は、知らないうちに入っていた肩から力を抜いて、ゆっくり、大きく息を吸いこんだ。「この廊下を真ッ直ぐに行くんだ、――編笠をかぶって。」 俺は看守の指さす方を見た。 ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・、戻り路は角の歌川へ軾を着けさせ俊雄が受けたる酒盃を小春に注がせてお睦まじいとおくびより易い世辞この手とこの手とこう合わせて相生の松ソレと突きやったる出雲殿の代理心得、間、髪を容れざる働きに俊雄君閣下初めて天に昇るを得て小春がその歳暮裾曳く・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・私が五十日あまりの病床から身を起こして、発病以来初めての風呂を浴びに、鼠坂から森元町の湯屋まで静かに歩いた時、兄弟二人とも心配して私のからだを洗いについて来たくらいだ。私の顔色はまだ悪かった。私は小田原の海岸まで保養を思い立ったこともある。・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・何らかの威力が迫って来て、私のこの知識を征服してくれたら、私は始めて信じ得るの幸福に入るであろう。 されば現下の私は一定の人生観論を立てるに堪えない。今はむしろ疑惑不定のありのままを懺悔するに適している。そこまでが真実であって、その先は・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・自分は何時間おったか知らぬ。鳥貝の白帆もとくにいなくなっている。「旦那は先い往んなんせ。お初やんが尋ねに出ましょうに」と母親がいう。自分は初めて貝殻の事を思いだして、そこそこに水天宮のところまで帰ってくる。 夕日がはるか向いの島蔭に・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・去歳の春、始めて一書を著わし、題して『十九世紀の青年及び教育』という。これを朋友子弟に頒つ。主意は泰西の理学とシナの道徳と並び行なうべからざるの理を述ぶるにあり。文辞活動。比喩艶絶。これを一読するに、温乎として春風のごとく、これを再読するに・・・ 田口卯吉 「将来の日本」
・・・それから女に拳銃を渡して、始めての射撃をさせた。 女は主人に教えられた通りに、引金を引こうとしたが、動かない。一本の指で引けと教えられたのに、内内二本の指を掛けて、力一ぱいに引いて見た。そのとき耳が、がんと云った。弾丸は三歩ほど前の地面・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・これを聞くと、始めて初夏という感を深く感ずる。雨の降頻る中に、さまさまの色をした緑を抜いて、金の玉のついた長い幟竿のさびしく高く立っているのは何となく心を惹く。 新茶のかおり、これも初夏の感じを深くさせるものの一つだ。雨が庭の若葉に降濺・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・今度の家は前のせまくるしい住居とちがって広い庭園に囲まれていたので、そこで初めて自由に接することの出来た自然界の印象も彼の生涯に決して無意味ではなかったに相違ない。 彼の家族にユダヤ人種の血が流れているという事は注目すべき事である。後年・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫