・・・前から見えていたのか顔をあげる途端に見えだしたのか判然しないが、とにかく雨を透してよく見える。あるいは屋敷の門口に立ててある瓦斯灯ではないかと思って見ていると、その火がゆらりゆらりと盆灯籠の秋風に揺られる具合に動いた。――瓦斯灯ではない。何・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・しかし一通り読んでしまへば、幾何学の公理と同じく判然明白に解つてしまふ。カントに宿題は残らない。然るにニイチェはどこまで行つても宿題ばかりだ。ニイチェの思想の中には、カント流の「判然明白」が全く無い。それは詩の情操の中に含蓄された暗示であり・・・ 萩原朔太郎 「ニイチェに就いての雑感」
・・・ 安岡は故郷のあらゆる医師の立ち会い診断でも病名が判然しなかった。臨終の枕頭の親友に彼は言った。「僕の病源は僕だけが知っている」 こう言って、切れ切れな言葉で彼は屍を食うのを見た一場を物語った。そして忌まわしい世に別れを告げてし・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・と、西宮も判然とは答えかねた。 吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧くしながら西宮を見る。「もう一遍」「ええ。故郷へ発程までに、もう一遍御一緒に来て下さ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・前すでにいえる如く、我が国内の人心は守旧と改進との二流に分れ、政府は学者とともに改進の一方におり、二流の分界判然として、あたかも敵対の如くなりしかども、改進の人は進みて退かず、難を凌ぎ危を冒し、あえて寸鉄に衂らずしてもって今日の場合にいたり・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・前にも述し如く実相界にある諸現象には自然の意なきにあらねど、夫の偶然の形に蔽われて判然とは解らぬものなり。小説に摸写せし現象も勿論偶然のものには相違なけれど、言葉の言廻し脚色の摸様によりて此偶然の形の中に明白に自然の意を写し出さんこと、是れ・・・ 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・そういう次第であるから、もし人間の智恵が宇宙にある悉くの現象を一々に極め尽す事の出来るものであったならば、未来の事でも判然とわかってしまう訳である。しかしとてもそういう事は出来る事でなくて、ただ僅かによく未来を想察する事が世の中に立ってエラ・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・「しからば何が故に夕方緑色が判然とするか。けだしこれはプウルウキインイイの現象によるのである。プウルウキインイイとはこう書く。」 博士はみみずのような横文字を一ぺんに三百ばかり書きました。ネネムも一生けん命書きました。それから博士は・・・ 宮沢賢治 「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」
・・・だままに捨てて置かれるという話を書いたもので、そのあたりの様子や、女の家の中の生活のことなど、非常に繊細な描写がしてあって、長々と書いてある具合から何から、すっかり、源氏物語りに影響されて書いたことが判然している。 これは、私が十五か六・・・ 宮本百合子 「昔の思い出」
・・・勿論何のことか判然聞取なかったんですが、ある時茜さす夕日の光線が樅の木を大きな篝火にして、それから枝を通して薄暗い松の大木にもたれていらっしゃる奥さまのまわりを眩く輝かさせた残りで、お着衣の辺を、狂い廻り、ついでに落葉を一と燃させて行頃何か・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
出典:青空文庫