・・・いつもは生きた機械か、別世界から出張した人間のように思われるこれらの従業員が、こうして見るとやはり乗客の自分らと同じ人種に見えるから妙である。昔北欧を旅行したとき、たしかヘルシングフォルスの電車の運転手が背広で、しかも切符切りの車掌などは一・・・ 寺田寅彦 「破片」
・・・陰気な根津辺に燻ぶっていて、時たま此処らの明るい町の明るい店先へ立つと全く別世界へ出たような心持になって何となく愉快である。時計屋だの洋物店の硝子窓を子供のようにのぞいて歩いた。呉服屋には美しい帯が飾ってあった。今日ちらと見た紙屋の娘の帯に・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・けれども午過には日の光が暖く、私は乳母や母上と共に縁側の日向に出て見た時、狐捜しの大騒ぎのあった時分とは、庭の様子が別世界のように変って居るのをば、不思議な程に心付いた。梅の樹、碧梧の梢が枝ばかりになり、芙蓉や萩や頭や、秋草の茂りはすっかり・・・ 永井荷風 「狐」
・・・一時間の後倫敦の塵と煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き方へと隔てた。 夏目漱石 「カーライル博物館」
・・・にくいほどに矛盾な乱雑な空虚にして安っぽいいわゆる新時代の世態が、周囲の過渡層の底からしだいしだいに浮き上って、自分をその中心に陥落せしめねばやまぬ勢を得つつ進むのを、日ごと眼前に目撃しながら、それを別世界に起る風馬牛の現象のごとくよそに見・・・ 夏目漱石 「ケーベル先生」
・・・ 浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界は別世界相応の話柄の種も尽きぬものか、朋輩の悪評が手始めで、内所の後評、廓内の評判、検査場で見た他楼の花魁の美醜、検査医の男振りまで評し尽して、後連とさし代われば、さし代ッたなりに同じ話柄の種・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・三行半の離縁状などは昔の物語にして、今日は全く別世界なりと知る可し。然るに女大学七去の箇条中、第一舅姑に順ならざるの文字を尊属虐待侮辱等の意味に解したらば或は可ならん。其他は一として民法に当るものなきが如し。法律に当らざる離縁法を世に公けに・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・ 財産についての観念も、扶持もちの侍と喜助とでは全く別世界のものである。 鴎外は、歴史小説という意味では、「高瀬舟」の中に、このいずれの点をも追究していない。作者としての主観にいきなり立って、財産についての観念、ユウタナジイの問題に・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
・・・ その室のとなりに教員室があり、子供たちにとって、教員室というところは、なみなみの思いでは入って行けない別世界であった。一人でさえ威風堂々たる先生たちが、二列に並んだ塗テーブルに向いあってぞっくりとかけて居られ、その正面には別に横長テー・・・ 宮本百合子 「藤棚」
・・・という華やかな雰囲気の冒頭によって始められたこの貴族の子息の幼年時代の追想は筆者トルストイの卓抜鮮明なリアリスティックな描写によって、何という別世界の日常を読者の前に展開させつつ、ゴーリキイの「幼年時代」に描かれている民衆の現実と対立してい・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫