・・・男は髭を伸ばした上、別人のように窶れている。が、彼女を見ている瞳は確かに待ちに待った瞳だった。「あなた!」 常子はこう叫びながら、夫の胸へ縋ろうとした。けれども一足出すが早いか、熱鉄か何かを踏んだようにたちまちまた後ろへ飛びすさった・・・ 芥川竜之介 「馬の脚」
・・・の字町へ行ったとか聞いた時には別人のように怒ったそうです。これもあるいは幾分か誇張があるかも知れません。けれども婆さんの話したままを書けば、半之丞は(作者註。田園的嫉妬の表白としてさもあらんとは思わるれども、この間に割愛せざるべからざる数行・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・ですから夫婦仲の好かった事は、元より云うまでもないでしょうが、殊に私が可笑しいと同時に妬ましいような気がしたのは、あれほど冷静な学者肌の三浦が、結婚後は近状を報告する手紙の中でも、ほとんど別人のような快活さを示すようになった事でした。「・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 治修はいつか別人のように、威厳のある態度に変っていた。この態度を急変するのは治修の慣用手段の一つである。三右衛門はやはり目を伏せたまま、やっと噤んでいた口を開いた。しかしその口を洩れた言葉は「なぜ」に対する答ではない。意外にも甚だ悄然・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・ 粟野さんの前に出た保吉は別人のように慇懃である。これは少しも虚礼ではない。彼は粟野さんの語学的天才に頗る敬意を抱いている。行年六十の粟野さんは羅甸語のシイザアを教えていた。今も勿論英吉利語を始め、いろいろの近代語に通じている。保吉はい・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・現に指揮官のM大尉なぞは、この隊の先頭に立った時から、別人のように口数の少い、沈んだ顔色をしているのだった。が、兵は皆思いのほか、平生の元気を失わなかった。それは一つには日本魂の力、二つには酒の力だった。 しばらく行進を続けた後、隊は石・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 勿論、別人とは納得しながら、うっかり口に出そうな挨拶を、唇で噛留めて、心着くと、いつの間にか、足もやや近づいて、帽子に手を掛けていた極の悪さに、背を向けて立直ると、雲低く、下谷、神田の屋根一面、雨も霞も漲って濁った裡に、神田明神の森が・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・歿後遺文を整理して偶然初度の原稿を検するに及んで、世間に発表した既成の製作と最始の書き卸しと文章の調子や匂いや味いがまるで別人であるように違ってるのを発見し、二葉亭の五分も隙がない一字の増減をすら許さない完璧の文章は全く千鍜万錬の結果に外な・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・梅子に対してはさすがの老先生も全然子供のようで、その父子の間の如何にも平穏にして情愛こまかなるを見る時は富岡先生実に別人のようだと誰しも思っていた位。「マアどうして?」村長は驚ろいて訊ねた。「どうしてか知らんが今度東京から帰って来て・・・ 国木田独歩 「富岡先生」
・・・其題に曰く学術技科の進闡せしをば人の心術風俗に於て益有りしと為す乎将た害ありしと為す乎とルーソー之を読みて神気俄に旺盛し、意思頓に激揚し自ら肺腸の一変して別人と成りしを覚え、殆ど飛游して新世界に跳入せしが如し。因て急に鉛筆を執りファプリシュ・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
出典:青空文庫