・・・「だって、今日は朝から非常に元気じゃないか、昨日た別人の観がある」「足の痛いにかかわらずか。ハハハハ。実はあんまり馬鹿気ているから、少し腹を立てて見たのさ」「僕に対してかい」「だってほかに対するものがないから仕方がないさ」・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・死したる人の蘇る時に、昔しの我と今の我との、あるは別人の如く、あるは同人の如く、繋ぐ鎖りは情けなく切れて、然も何等かの関係あるべしと思い惑う様である。半時なりとも死せる人の頭脳には、喜怒哀楽の影は宿るまい。空しき心のふと吾に帰りて在りし昔を・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・みんなと同じ仕事着を着て頭をきっちり赤い布でしばって、穿いている黒靴こそ、醋酸をのんで倒れたとき、穿いていたままだが、顔つきと云い歩きっぷりと云い、これは別人だ。 しかも、何だか他の若い労働婦人たちより一層確りしたようなところがある。・・・ 宮本百合子 「「インガ」」
・・・ お君を迎えに田舎に行った時に会った栄蔵と今の栄蔵とは、まるで別人の様に、恭二の眼にうつった。 急にすっかりふけてしまって居る。 前にもまして陰気に、影がうすく、貧しげである。 あれから、半年ばかりの間に、どれほどの苦労をし・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・花道を繰り出して来た時、おやあれかと思い、熱心に近づく顔を見守ると別人だ。左の端から五人目のおどり子が、踊りながら頻りに此方を見、ふっとしなをする眼元を此方からも見なおしたら、それが桃龍であった。やんちゃな彼女が、さも尤もらしく桜の枝を上げ・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・口元など、別人のように痛々しく皺みくぼんでいる。息が抜けるので一層弱い声で、祖母は、「なしてこげえな病気になったろう。……早く死にたいごんだなあ」と訴えた。彼女は、病気より何より自分で厠に行けないのを苦にやんだ。一寸気を許すと、夜な・・・ 宮本百合子 「祖母のために」
・・・「別人にならずして戦争から帰る人はありません」これはルドルフ・フィッシャーというハイデルベルグ大学の学生が、一九一四年の冬二十四歳で戦死する少し前書いた手紙の中にある言葉である。何と簡潔な、何と真実な声であろう。今日の私たちはこう云うこ・・・ 宮本百合子 「「どう考えるか」に就て」
・・・酒が好きで、別人なら無礼のお咎めもありそうな失錯をしたことがあるのに、忠利は「あれは長十郎がしたのではない、酒がしたのじゃ」と言って笑っていた。それでその恩に報いなくてはならぬ、その過ちを償わなくてはならぬと思い込んでいた長十郎は、忠利の病・・・ 森鴎外 「阿部一族」
・・・これを聞けば、ほとんど別人の名を聞くが如く、しかもその別人は同世の人のようではなくて、却って隔世の人のようである。明治の時代中ある短日月の間、文章と云えば、作に露伴紅葉四迷篁村緑雨美妙等があって、評に逍遥鴎外があるなどと云ったことがある。こ・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・丸亀に帰って、文吉を松尾から呼んで僧を見させたが、それは別人であった。 伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日いて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑を侵し・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
出典:青空文庫