・・・ 紺のあつしをセルの前垂れで合せて、樫の角火鉢の横座に坐った男が眉をしかめながらこう怒鳴った。人間の顔――殊にどこか自分より上手な人間の顔を見ると彼れの心はすぐ不貞腐れるのだった。刃に歯向う獣のように捨鉢になって彼れはのさのさと図抜けて・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ きよは、泣いたりして恥ずかしいと思ったので、前垂れで、涙をふきました。「私が、まちがって、ちがった鉛筆を買ってきましたので、もうしわけありません。」といいました。「どうして、この鉛筆がいけないの。」と、光子さんはききました。・・・ 小川未明 「気にいらない鉛筆」
・・・ 洋服のポケットや、前垂れのポケットの中にいれて、チャラ、チャラと鳴らしていましたが、いつのまにか、ヨシ子さんの姿が見えなくなりました。「ヨシ子さん、帰ったの。」と、正ちゃんが、ききました。「お家へ糸を取りにいったんだろう。」と・・・ 小川未明 「左ぎっちょの正ちゃん」
・・・ 汚れた帆前垂れは、空樽に投げかけたまゝ一週間ほど放ってあったが、間もなく、杜氏が炊事場の婆さんに洗濯さして自分のものにしてしまった。 黒島伝治 「砂糖泥棒」
・・・まアお待ちよと言ったが、なかなか言うことを聞きそうにもないので、洗濯の手を前垂れでそそくさと拭いて、前の縁側に腰をかけて、子供を抱いてやった。そこへ総領の女の児も来て立っている。 客間兼帯の書斎は六畳で、ガラスの嵌まった小さい西洋書箱が・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 千鶴子は前垂れをかけたまま亢奮して飛び出して来た、そのつづきの調子で、「一寸この人字がうまいでしょう?」など、断れ断れに喋った。「お上りなさいな」「いいえ、また。これさえ香わせて上げればいいの、左様なら」 はる・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
出典:青空文庫