・・・ちょうど母が歿くなる前年、店の商用を抱えた私は、――御承知の通り私の店は綿糸の方をやっていますから、新潟界隈を廻って歩きましたが、その時田原町の母の家の隣に住んでいた袋物屋と、一つ汽車に乗り合せたのです。それが問わず語りに話した所では、母は・・・ 芥川竜之介 「捨児」
・・・それは確震災の前年、――大正十一年の年末だったであろう。僕はその夜田山花袋、高島米峰、大町桂月の諸氏に初めてお目にかかることが出来た。 ◇ 僕は又滝田君の病中にも一度しか見舞うことが出来なかった。滝田君は昔夏目先生が「・・・ 芥川竜之介 「滝田哲太郎君」
・・・を書いたのは、この前年であるから、ちょうど一年振りで、二度の勤めをしている訳である。 そこでしばらく立って読んで見ていると、校正の間違いなども大分あるようだから、旁々ここに二度の勤めをするこの小説の由来も聞いてみたし、といって、まだ新聞・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・ 実は――前年一度この温泉に宿った時、やっぱり朝のうち、……その時は町の方を歩行いて、通りの煮染屋の戸口に、手拭を頸に菅笠を被った……このあたり浜から出る女の魚売が、天秤を下した処に行きかかって、鮮しい雑魚に添えて、つまといった形・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・また丁どその卯の花の枝の下に御飯が乗っている。前年の月見草で心得て、この時は澄ましていた。やがて一羽ずつ密と来た。忽ち卯の花に遊ぶこと萩に戯るるが如しである。花の白いのにさえ怯えるのであるから、雪の降った朝の臆病思うべしで、枇杷塚と言いたい・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・厄介に思われてるんじゃないかしら、何だか去年や其前年来た時のようではない。どうしたって来たから仕方なしという待遇としか思われない。来ねばよかったな、こりゃ飛だ目に遭ったもんだ。予は思わず歎息が出た。 岡村もおかしいじゃないか、訪問するか・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・前へ出ては内気で、無愛嬌だが、――とんまな両親のしていることがもどかしくッて、もどかしくッてたまらないという風に、自分が用のない時は、火鉢の前に坐って、目を離さず、その長い頤で両親を使いまわしている。前年など、かかえられていた芸者が、この娘・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・…… 自分はその前年の九月の震災まで、足かけ五年間、鎌倉の山の中の古寺の暗い一室で、病気、不幸、災難、孤独、貧乏――そういったあらゆる惨めな気持のものに打挫かれたような生活を送っていたのだったが、それにしても、実際の牢獄生活と較べてどれ・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・弟も前年細君の父の遺物に贈られた、一族のことで同じ丸に三つ柏の紋のついた絽の羽織を持っているが、それはまた丈がかなり短かかった。「追而葬式の儀はいっさい簡略いたし――と葉書で通知もしてあるんだから、いっそ何もかも略式ということにしてふだ・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・恰度前年お正と共に散歩した晩と同じである。然し前年の場所へ行くは却って思出の種と避けて渓の上へのぼりながら、途々「縁」に就て朝田が説いた処を考えた、「縁」は実に「哀」であると沁み沁み感じた。 そして構造の大きな農家らしき家の前に来ると、・・・ 国木田独歩 「恋を恋する人」
出典:青空文庫