・・・―― 三年前の九月、兄が地方の高等学校へ、明日立とうと云う前日だった。洋一は兄と買物をしに、わざわざ銀座まで出かけて行った。「当分大時計とも絶縁だな。」 兄は尾張町の角へ出ると、半ば独り言のようにこう云った。「だから一高へは・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・試合の前日でございまする。数馬は突然わたくしに先刻の無礼を詫びました。しかし先刻の無礼と申すのは一体何のことなのか、とんとわからぬのでございまする。また何かと尋ねて見ても、数馬は苦笑いを致すよりほかに返事を致さぬのでございまする。わたくしは・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・ 始めは、時刻が時刻だから、それに前日の新聞に葬儀の時間がまちがって出たから、会葬者は存外少かろうと思ったが、実際はそれと全く反対だった。ぐずぐずしていると、会葬者の宿所を、帳面につけるのもまにあわない。僕はいろんな人の名刺をうけとるの・・・ 芥川竜之介 「葬儀記」
・・・ もっとも、その前日も、金子無心の使に、芝の巴町附近辺まで遣られましてね。出来ッこはありません。勿論、往復とも徒歩なんですから、帰途によろよろ目が眩んで、ちょうど、一つ橋を出ようとした時でした。午砲!――あの音で腰を抜いたんです。土を引・・・ 泉鏡花 「木の子説法」
・・・この前日、夫人像出来、道中安全、出荷という、はがきの通知をうけていた。 のち二日目の午後、小包が届いたのである。お医師を煩わすほどでもなかった。が、繃帯した手に、待ちこがれた包を解いた、真綿を幾重にも分けながら。 両手にうけて捧げ参・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・あたかも旧の初午の前日で、まだ人出がない。地口行燈があちこちに昼の影を浮かせて、飴屋、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴した。 縦通りを真直ぐに、中六を突切って、左へ――女子学院の塀に添って、あれから、帰宅の途を、・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・自然遅れて来たものは札が請取れないから、前日に札を取って置いて翌日に買いに来るというほど繁昌した。丁度大学病院の外来患者の診察札を争うような騒ぎであったそうだ。 淡島屋の軽焼の袋の裏には次の報条が摺込んであった。余り名文ではないが、淡島・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ けれど、翌日になって、来て見ると、前日に変りなく、かつて何事も起らなかったように、黒い、小さな影は、あたり一面に動いていました。いかに多数でも、かぎりがあるから、根絶やせないはずはない。やはり、薬がきかないのだと思って、いろ/\新しい・・・ 小川未明 「近頃感じたこと」
・・・翌日は非常な意気ごみで紀代子の帰りを待ち受けた。前日の軽はずみをいささか後悔していた紀代子は、もう今日は相手にすまいと思ったが、しかし今日こそ存分にきめつけてやろうという期待に負けて、並んで歩いた。そして、結局は昨日に比べてはるかに傲慢な豹・・・ 織田作之助 「雨」
・・・耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもって・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
出典:青空文庫