・・・綿のはみ出た頭巾の端には「大阪府南河内郡林田村第十二組、楢橋廉吉A型、勤務先大阪府南河内郡林田村林田国民学校」と達筆だが、律義そうなその楷書の字が薄給で七人の家族を養っているというこの老訓導の日々の営みを、ふと覗かせているようだった。口髭の・・・ 織田作之助 「世相」
・・・の隣にある剃刀屋の通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。柳吉はいやとは言えなかった。安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだ・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 陸軍病院で――彼は、そこに勤務していた――毎月一円ずつ強制的に貯金をさせられている。院長の軍医正が、兵卒に貯金をすることを命じたのだ。 俸給が、その時、戦時加俸がついてなんでも、一カ月五円六十銭だった。兵卒はそれだけの金で一カ月の・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ そして二人は骨の折れる、危険な勤務につかせられた。 松木と武石とは、雪の深い道を中隊から十町ばかりさきに出て歩いた。そして見た状勢を、馳け足で、うしろへ引っかえして報告した。報告がすむと、また前に出て行くことを命じられた。雪は深く・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・「二度とも一週間の練兵休で、すぐまた、勤務につかせられたよ。」「十分念を入れてみて貰うたらどうだ。」「どんなにみて貰うたってだめだよ。」 そしてまた咳をした。「おい。みんな何をしているんだ!」入口から特務曹長がどなった。「命・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・毎朝点呼から消燈時間まで、勤務や演習や教練で休むひまがない。物を考えるひまがない。工場や、農村に残っている同志や親爺には、工場主の賃銀の値下げがある。馘首がある。地主の小作料の引上げや、立入禁止、又も差押えがある。労働者は、働いても食うこと・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・丈夫で勤務についている者は、いつまでシベリアにいなければならないか、そのきりが分らないのだ。「俺もひとつ、軽い負傷をしてやるかな。」 彼は、ひそかに考えた。彼はシベリアにあきてしまった。パルチザンと鉄砲で撃ち合いをやり、村を焼き、彼・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・二年兵になって暫らく衛戍病院で勤務して、それからシベリアへ派遣されたのであった。一緒に、敦賀から汽船に乗って来た同年兵は百人あまりだった。彼等がシベリアへ着くと、それまでにいた四年兵と、三年兵の一部とが、内地へ帰って行った。 シベリアは・・・ 黒島伝治 「雪のシベリア」
五月が来た。測候所の技手なぞをして居るものは誰しも同じ思であろうが、殊に自分はこの五月を堪えがたく思う。其日々々の勤務――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追わ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・外国文書の飜訳、それが彼の担当する日々の勤務であった。足を洗おう、早く――この思想は近頃になって殊に烈しく彼の胸中を往来する。その為に深夜までも思い耽る、朝も遅くなる、つい怠り勝に成るような仕末。彼は長い長い腰弁生活に飽き疲れて了った。全く・・・ 島崎藤村 「並木」
出典:青空文庫