・・・鶴さんはもと料理人で東京の一流料理店で相当庖丁の冴えを見せていたのだが、高級料理店の閉鎖以来、細君のオトラ婆さんの故郷のこの町へ来て、細君は灸を据えるのを商売にしているが、鶴さんには夫婦喧嘩以外にすることはない。 こうして、鶴さんとオト・・・ 織田作之助 「電報」
・・・将校は老人の手や顔に包丁で切ったような小さい傷をつけるのがいやになった。大刀の斬れあじをためすためにやってみたのだ。だが、そいつがあまりに斬れなかった。「えゝい、仕様がない。このまゝ埋めてしまえ! 面倒だ」 将校はテレかくしに苦笑し・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ 細君は焜炉を煽いだり、庖丁の音をさせたり、忙がしげに台所をゴトツカせている。主人が跣足になって働いているというのだから細君が奥様然と済してはおられぬはずで、こういう家の主人というものは、俗にいう罰も利生もある人であるによって、人の妻た・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・いも咬み分けたというような肌合の人には、馬琴の小説は野暮くさいでもありましょうし、また清い水も濁った水も併せて飲むというような大腹中の人には、馬琴の小説はイヤに偏屈で、隅から隅まで尺度を当ててタチモノ庖丁で裁ちきったようなのが面白くなくも見・・・ 幸田露伴 「馬琴の小説とその当時の実社会」
・・・青い夕顔に、真魚板に、庖丁と、こうあれに渡したと思わっせれ。ところが、あなた、あれはもう口をフウフウ言わせて、薄く切って見たり、厚く切って見たり。この夕顔はおよそ何分ぐらいに切ったらいいか、そういうことに成るとまるであれには勘考がつかんぞな・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・日頃台所にいて庖丁に親しむことの好きなお三輪は、こういう日にこそ伜や親戚を集め、自分の手作りにしたもので一緒に記念の食事でもしたいと思ったが、それも叶わなかった。親戚も多く散り散りばらばらだ。お三輪と同じように焼出された親戚の中には、東京の・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ある武士的な文豪は、台所の庖丁でスパリと林檎を割って、そうして、得意のようである。はなはだしきは、鉈でもって林檎を一刀両断、これを見よ、亀井などという仁は感涙にむせぶ。 どだい、教養というものを知らないのだ。象徴と、比喩と、ごちゃまぜに・・・ 太宰治 「豊島與志雄著『高尾ざんげ』解説」
・・・ 店では小僧がひとり、肉切庖丁をといでいる。「兄さんは?」「おでかけです。」「どこへ?」「寄り合い。」「また、飲みだな?」 義兄は大酒飲みである。家で神妙に働いている事は珍らしい。「姉さんはいるだろう。」・・・ 太宰治 「犯人」
・・・きざなようですけれども、(ふところから、手拭いに包んだ出刃庖丁今夜は、こういうものを持って来ました。そんな花火なんかやめて、イエスかノオか、言って下さい。この花火はね、二、三日前にあたしのお母さんが、睦子に買って下さったものなんですけど・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・それがある時台所で出入りの魚屋と世間話をしながら、刺身包丁を取り上げて魚屋の盤台の鰹の片身から幅二分くらい長さ一尺近い細長い肉片を巧みにそぎ取った。そうしてその一端を指でつまんで高く空中に吊り下げた真下へ仰向いた自身の口をもって行って、見る・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
出典:青空文庫