・・・さっそく電髪屋に行って、髪の手入れも致しましたし、お化粧品も取りそろえまして、着物を縫い直したり、また、おかみさんから新しい白足袋を二足もいただき、これまでの胸の中の重苦しい思いが、きれいに拭い去られた感じでした。 朝起きて坊やと二人で・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・白っぽい砂礫を洗う水の浅緑色も一種特別なものであるが、何よりも河の中洲に生えた化粧柳の特異な相貌はこれだけでも一度は来て見る甲斐があると思われた。この柳は北海道にはあるが内地ではここだけに限られた特産種で春の若芽が真赤な色をして美しいそうで・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・十年も前にいったん人に取られたことは、道太も聞いていたが、おひろのまた下の妹が、そのころ別に一軒出していて、お絹は母親といっしょに、廓の外に化粧品の店を出すかたわら、廓の子供たちに踊りを教えていた。道太はそこへも訪ねたことがあったが、廓を出・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・女が肩肌抜ぎで化粧をしている様やら、狭い勝手口の溝板の上で行水を使っているさままでを、すっかり見下してしまう事がある。尤も日本の女が外から見える処で行水をつかうのは、『阿菊さん』の著者を驚喜せしめた大事件であるが、これはわざわざ天下堂の屋根・・・ 永井荷風 「銀座」
・・・有繋に彼等は見えもせぬのに化粧を苦にして居る。毛繻子のくけ紐は白粉の上にくっきりと強い太い線を描いて居る。削った長い木の杖を斜について危げに其足駄を運んで行く。上部は荷物と爪折笠との為めに図抜けて大きいにも拘らず、足がすっとこけて居る。彼等・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・近頃日本でも美顔術といって顔の垢を吸出して見たり、クリームを塗抹して見たりいろいろの化粧をしてくれる専門家が出て来ましたが、ああいう商売はおそらく昔はないのでしょう。今日のように職業が芋の蔓みたようにそれからそれへと延びて行っていろいろ種類・・・ 夏目漱石 「道楽と職業」
・・・病気ではないが、頬に痩せが見えるのに、化粧をしないので、顔の生地は荒れ色は蒼白ている。髪も櫛巻きにして巾も掛けずにいる。年も二歳ばかり急に老けたように見える。 火鉢の縁に臂をもたせて、両手で頭を押えてうつむいている吉里の前に、新造のお熊・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・彼は自分の不快の為に彼女が断った今日の招待状が二枚、化粧台の上に賑やかな金縁を輝かせているの知っていた。 彼女は、朝の髪を結うとき、殆どひとりでに改めてその華やかな文字を眺めなおしただろう。きっと寂しい眼付をして窓の外を眺め、髪を結いか・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ところが、下女は今まで包ましくしていたのが、次第にお化粧をする、派手な着物を着る。なんとなく人の目に立つ。宮沢は気が気でない。とうとう下女の親許へ出掛けて行って、いずれ妻にするからと云って、一旦引き取らせて手当を遣っていた。そのうちにどうか・・・ 森鴎外 「独身」
・・・病舎の燈火が一斉に消えて、彼女たちの就寝の時間が来ると、彼女らはその厳格な白い衣を脱ぎ捨て、化粧をすませ、腰に色づいた帯を巻きつけ、いつの間にかしなやかな寝巻姿の娘になった。だが娘になった彼女らは、皆ことごとく疲れと眠さのため物憂げに黙って・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫