・・・すると御主人はこの女に、優しい会釈を返されてから、「あれが少将の北の方じゃぞ。」と、小声に教えて下さいました。 わたしはさすがに驚きました。「北の方と申しますと、――成経様はあの女と、夫婦になっていらしったのですか?」 俊寛・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・ 次の日も王子は燕の旅立ちをきのどくだがとお引き留めになっておっしゃるには、「今日は北の方に行ってもらいたい。あの烏の風見のある屋根の高い家の中に一人の画家がいるはずだ。その人はたいそう腕のある人だけれどもだんだんに目が悪くなって、・・・ 有島武郎 「燕と王子」
・・・また見よ、北の方なる蝦夷の島辺、すなわちこの北海道が、いかにいくたの風雲児を内地から吸収して、今日あるに到ったかを。 我が北海道は、じつに、我々日本人のために開かれた自由の国土である。劫初以来人の足跡つかぬ白雲落日の山、千古斧入らぬ蓊鬱・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・行歩健かに先立って来たのが、あるき悩んだ久我どのの姫君――北の方を、乳母の十郎権の頭が扶け参らせ、後れて来るのを、判官がこの石に憩って待合わせたというのである。目覚しい石である。夏草の茂った中に、高さはただ草を抽いて二三尺ばかりだけれども、・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・が、蔵前の煙突も、十二階も、睫毛に一眸の北の方、目の下、一雪崩に崕になって、崕下の、ごみごみした屋根を隔てて、日南の煎餅屋の小さな店が、油障子も覗かれる。 ト斜に、がッくりと窪んで暗い、崕と石垣の間の、遠く明神の裏の石段に続くのが、大蜈・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ かもめは、北の方の故郷に帰ろうと心にきめました。そして、その名残にこの街の中の光景をできるだけよく見ておこうと思いました。ある太陽の輝く、よく晴れた日の午前のことでありました。白いかもめは、都の空を一まわりいたしました。すると、大きな・・・ 小川未明 「馬を殺したからす」
ある田舎の停車場へ汽車がとまりました。その汽車は、北の方の国からきて、だんだん南の方へゆくのでありました。どの箱にも、たくさんな荷物が積んでありました。どこかの山から伐り出されたのであろう、材木や掘り出された石炭や、その他いろいろなも・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
一 どこからともなく、爺と子供の二人の乞食が、ある北の方の港の町に入ってきました。 もう、ころは秋の末で、日にまし気候が寒くなって、太陽は南へと遠ざかって、照らす光が弱くなった時分であります。毎日のように渡り鳥は、ほばしらの・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
はるか、北の方の国にあった、不思議な話であります。 ある日のこと、その国の男の人たちが氷の上で、なにか忙しそうに働いていました。冬になると、海の上までが一面に氷で張りつめられてしまうのでした。だから、どんなに寒いかということも想像・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・まだ北の方に、俺を待っているものがたくさんいる。」と、太陽はいいました。「だが私は、あなたにお別れするのが悲しくてなりません。」と、草はいいました。「そんなに悲しまなくてもいい。俺は南に帰るときに、もう一度おまえを見るだろう。」と、・・・ 小川未明 「小さな草と太陽」
出典:青空文庫