・・・その夜、月は太鼓を負って、北の方へ旅をしました。 北の方の海は、依然として銀色に凍って、寒い風が吹いていました。そして海豹は、氷山の上にうずくまっていました。「さあ約束のものを持って来た。」といって、月は太鼓を海豹に渡してやりました・・・ 小川未明 「月と海豹」
・・・「それからどうしました?」と岡本は真面目で促がした。「それから北の方へ防風林を一区劃、なるべくは林を多く取って置くことにしました。それから水の澄み渡った小川がこの防風林の右の方からうねり出て屋敷の前を流れる。無論この川で家鴨や鵞鳥が・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
わが青年の名を田宮峰二郎と呼び、かれが住む茅屋は丘の半腹にたちて美わしき庭これを囲み細き流れの北の方より走り来て庭を貫きたり。流れの岸には紅楓の類を植えそのほかの庭樹には松、桜、梅など多かり、栗樹などの雑わるは地柄なるべし、――区何町・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・東照宮前から境内を覗くと石燈籠は一つ残らず象棋倒しに北の方へ倒れている。大鳥居の柱は立っているが上の横桁が外れかかり、しかも落ちないで危うく止まっているのであった。精養軒のボーイ達が大きな桜の根元に寄集まっていた。大仏の首の落ちた事は後で知・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・それのみならず河の流れが丁度この橋のかかっているあたりを中心にして、ゆるやかに西南の方へと曲っているところから、橋の中ほどに佇立むと、南の方には永代橋、北の方には新大橋の横わっている川筋の眺望が、一目に見渡される。西の方、中洲の岸を顧みれば・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・放水路の流れはこの橋の南で、荒川の本流と相接した後、忽ち方向を異にし、少しく北の方にまがり、千住新橋の下から東南に転じて堀切橋に出る。橋の欄干に昭和六年九月としてあるので、それより以前には橋がなかったのであろうか。あるいは掛替えられたのであ・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・「北の方はひでえケイマクだ。おっつあん遁げたらよかねえか」「うるせえな」 太十は僅にこういった。彼は精神の疲労から迚ても動く気になれなかった。雲は地上に近く掩いかぶさってあたりが薄暮の如く闇くなった。頬白は塒を求めて慌ててさまよ・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・ 一 夢 百、二百、簇がる騎士は数をつくして北の方なる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽く衣の裾の響のみ残る。 薄紅の一枚をむざとばかりに肩より投げ懸けて、白き二の腕さえ明・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ 雑木林を小半里ほど来たら、怪しい空がとうとう持ち切れなくなったと見えて、梢にしたたる雨の音が、さあと北の方へ走る。あとから、すぐ新しい音が耳を掠めて、翻える木の葉と共にまた北の方へ走る。碌さんは首を縮めて、えっと舌打ちをした。 一・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・今の内姿を窶して、クララと落ち延びて北の方へでも行こうか。落ちた後で朋輩が何というだろう。ルーファスが人でなしと云うだろう。内懐からクララのくれた一束ねの髪の毛を出して見る。長い薄色の毛が、麻を砧で打って柔かにした様にゆるくうねってウィリア・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
出典:青空文庫