・・・ 北風は長い坂の上から時々まっ直に吹き下ろして来た。墓地の樹木もその度にさあっと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はこう言う薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘うように一心に箱車を押しつづけて行った。………・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・五月も半ば、と申すに、北風のこう烈しい事は、十年以来にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、貴下様、もうこれ布子から単衣と飛びまする処を、今日あたりはどういたして、また襯衣に股引などを貴下様、下女の宿下り見まするように、古葛籠を引覆しますよ・・・ 泉鏡花 「朱日記」
・・・冬籠の窓が開いて、軒、廂の雪がこいが除れると、北風に轟々と鳴通した荒海の浪の響も、春風の音にかわって、梅、桜、椿、山吹、桃も李も一斉に開いて、女たちの眉、唇、裾八口の色も皆花のように、はらりと咲く。羽子も手鞠もこの頃から。で、追羽子の音、手・・・ 泉鏡花 「雛がたり」
・・・一面に赤黒き燈火の影の射せること、その門前なる二柱のガス燈の昨夜よりも少しく暗きこと、往来のまん中に脱ぎ捨てたる草鞋の片足の、霜に凍て附きて堅くなりたること、路傍にすくすくと立ち併べる枯れ柳の、一陣の北風に颯と音していっせいに南に靡くこと、・・・ 泉鏡花 「夜行巡査」
・・・勇ちゃんは、ハーモニカを唇にあてて、姉さんの好きだった曲を、北風に向かって鳴らしていたのです。 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ 冬へかけての旅は、烈しい北風に抗して進まなければならなかった。年とったがんは、みんなを引き連れているという責任を感じていました。同時に若いものの勇気を鼓舞しなければならぬ役目をもっていました。彼は、風と戦い、山野を見下ろして飛んだけれ・・・ 小川未明 「がん」
・・・爺の歩きながら弾く胡弓の音は、寒い北風に送られて、だんだんと遠くに消えてゆくのでありました。こんなふうに町の人々には、この二人の乞食を情けなく取り扱いましたけれど、やはりどんなに風の吹く日も、また寒い日にでも、二人はこの町へやってきました。・・・ 小川未明 「黒い旗物語」
・・・また、林に鳴る北風の唄でもいゝ。小鳥の啼声でもいゝ。時に、私達は、恍惚として、それに聞きとられることがある。そして、それは、また音楽について、教養あるがために、自然の声から、神秘を聞き取るという訳ではないのだ。 たゞ、どこにでもあるであ・・・ 小川未明 「名もなき草」
・・・そしてそこへ出ると、そりの跡も風にかき消されて、あるかなしかにしか見えなく、寒い北風が顔や手や足を吹いたのでした。君は僕の家来 ようやくその野原を通りこして、かなたの森の中から学校の屋根が見える村はずれにさしかかりますと、い・・・ 小川未明 「雪の国と太郎」
・・・ 或日自分は何時のように滑川の辺まで散歩して、さて砂山に登ると、思の外、北風が身に沁ので直ぐ麓に下て其処ら日あたりの可い所、身体を伸して楽に書の読めそうな所と四辺を見廻わしたが、思うようなところがないので、彼方此方と探し歩いた、すると一・・・ 国木田独歩 「運命論者」
出典:青空文庫