・・・座につくと、静かに右手で十字を切った。 白石は通事に言いつけて、シロオテの故郷のことなど問わせ、自分はシロオテの答える言葉に耳傾けていた。その語る言葉は、日本語にちがいなく、畿内、山陰、西南海道の方言がまじっていて聞きとりがたいところも・・・ 太宰治 「地球図」
・・・胸に十字を切って、わけの判らぬ言葉でもって烈しいお祈りをはじめたのである。 おしまいに日本語を二言囁いた。「咲クヨウニ。咲クヨウニ」 安楽なくらしをしているときは、絶望の詩を作り、ひしがれたくらしをしているときは、生のよ・・・ 太宰治 「葉」
・・・牢屋や留置場の窓の鉄格子、工場の窓の十字格子。終わりに近く映出される丸箱に入った蓄音機の幾何学的整列。こういったようなものが緩急自在な律動で不断に繰り返される。円形の要素としては蓄音機の円盤、工場の煙突や軒に現われるレコードのマーク。工場の・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・はいって来る信徒らは皆入り口の壁や柱にある手水鉢に指の先をちょっと入れて、額へ持って行って胸へおろしてそれから左の乳から右の乳へ十字をかく。堂のわきのマドンナやクリストのお像にはお蝋燭がともって二三人ずつその前にひざまずいて祈っている。蝋燭・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・ 王は黄金を飾った兜をきて、白地に金の十字をあらわした盾と投げ槍とを持ち、腰にはネーテと名づける剣を帯び、身には堅固な鎖帷子を着けていた。 美しい天気であったのが、戦が始まると空と太陽が赤くなって、戦の終わるころには夜のように暗くな・・・ 寺田寅彦 「春寒」
・・・鏡の裏なる狭き宇宙の小さければとて、憂き事の降りかかる十字の街に立ちて、行き交う人に気を配る辛らさはあらず。何者か因果の波を一たび起してより、万頃の乱れは永劫を極めて尽きざるを、渦捲く中に頭をも、手をも、足をも攫われて、行くわれの果は知らず・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・ウィリアムは覚えず空に向って十字を切る。今の内姿を窶して、クララと落ち延びて北の方へでも行こうか。落ちた後で朋輩が何というだろう。ルーファスが人でなしと云うだろう。内懐からクララのくれた一束ねの髪の毛を出して見る。長い薄色の毛が、麻を砧で打・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も余には何らの便宜をも与える事が出来なかった。余はやむを得ないから四ツ角へ出るたびに地図を披いて通行人に押し返されながら足の向く方角を定める。地図で知れぬ時は人に聞く、人に聞い・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ここにて考うれば、筆算に便利あるが如くなれども、数の文字、十字だけは、横文を知らずしてかなわぬことなれば、今の学校にて教育を受けたるものよりほかには通用すべからず。たとい学校にて加減乗除・比例等の術を学び得て家に帰るも、世間一般は十露盤の世・・・ 福沢諭吉 「小学教育の事」
・・・この燈火が照すと、己の部屋のがらくた道具が見える。これが己の求める物に達する真直な道を見る事の出来ない時、厭な間道を探し損なった記念品だ。この十字架に掛けられていなさる耶蘇殿は定めて身に覚えがあろう。その疵のある象牙の足の下に身を倒して甘い・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
出典:青空文庫