・・・砂山に生え交る、茅、芒はやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代万代の末かけて、巌は松の緑にして、霜にも色は変えないのである。 さればこそ、松五郎。我が勇しき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児を・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・京千代さんの、鴾さんと、一座で、お前さんおいでなすった……」「ああ、そう……」 夢のように思出した。つれだったという……京千代のお京さんは、もとその小浜屋に芸妓の娘分が三人あった、一番の年若で。もうその時分は、鴾の細君であった。鴾氏・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 呼ぶのは嫂お千代だ。おとよは返辞をしない。しないのではない、できないのだ。何の用で呼ぶかという事は解ってるからである。「おとよさん、おとッつさんが呼んでいますよ」 枝折戸の近くまで来てお千代は呼ぶ。「ハイ」 おとよは押・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・「実は大事にしまってあることはしまってありますが、お千代が渡してくれるなと言っていましたから――」「千代は私の家内です、そんな言い分は立ちません」「それでは出しますから」と、母は鍵を持って来て、そッけなく僕の前に置き、台どころの・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 三人は毎朝里村千代という若い娘が馭者をしている乗合馬車に乗って町の会社へ出掛けて夕方帰って来るが、その間小隊長は一人留守番をしなくてはならなかった。ある日、三人が帰ってみると、小隊長がいない。迷子になったのかと、三人のうちあわて者の照・・・ 織田作之助 「電報」
・・・ 赤児はお光と名づけ、もう乳ばなれするころだったゆえ、乳母の心配もいらず、自分の手一つで育てて四つになった夏、ちょうど江戸の黒船さわぎのなかで登勢は千代を生んだ。千代が生まれるとお光は継子だ。奉公人たちはひそかに残酷めいた期待をもったが・・・ 織田作之助 「螢」
・・・総領の新太郎は道楽者で、長女のおとくは埼玉へ嫁いだから、両親は職人の善作というのを次女の千代の婿養子にして、暖簾を譲る肚を決め、祝言を済ませたところ、千代に男があったことを善作は知り、さまざま揉めた揚句、善作は相模屋を去ってしまった――。・・・ 織田作之助 「妖婦」
・・・ 六歳の時、關雪江先生の御姉様のお千代さんと云う方に就いて手習を始めた。此方のことは佳人伝というものに出て居る、雪江先生のことは香亭雅談其他に出て居る。父も兄も皆雪江先生に学んだので、其縁で小さいけれども御厄介になったのです。随分大勢習・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・ 三重吉の小説によると、文鳥は千代千代と鳴くそうである。その鳴き声がだいぶん気に入ったと見えて、三重吉は千代千代を何度となく使っている。あるいは千代と云う女に惚れていた事があるのかも知れない。しかし当人はいっこうそんな事を云わない。自分・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失くした、お千代も生家へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返し・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
出典:青空文庫