・・・ 家を出て、表門の鳥居をくぐると、もう高津表門筋の坂道、その坂道を登りつめた南側に「かにどん」というぜんざい屋があったことはもう知っている人はほとんどいないでしょう。二つ井戸の「かにどん」は知っている人はいても、この「かにどん」は誰も知・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・四 雁次郎横丁――今はもう跡形もなく焼けてしまっているが、そしてそれだけに一層愛惜を感じ詳しく書きたい気もするのだが、雁次郎横丁は千日前の歌舞伎座の南横を西へはいった五六軒目の南側にある玉突屋の横をはいった細長い路地である。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 見ると、スパイは、日あたりのいゝ、積重ねられた薪の南側に腰をおろしてうつら/\櫓をこいでいた。 人の邪魔をしながら、いい気になっていやがるんだ、と西山は思った。彼は何か胸にむら/\とするものを感じた。「やったろうか!」彼は後藤・・・ 黒島伝治 「鍬と鎌の五月」
・・・北側の入口には赤と黒との縞のよごれたモスリンのカアテンがかけられ、そのうえの壁に、沼のほとりの草原に裸で寝ころんで大笑いをしている西洋の女の写真がピンでとめつけられていた。南側の壁には、紙の風船玉がひとつ、くっついていた。それがすぐ私の頭の・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ 列車が上諏訪に近づいたころには、すっかり暗くなっていて、やがて南側に、湖が、――むかしの鏡のように白々と冷くひろがり、たったいま結氷から解けたみたいで、鈍く光って肌寒く、岸のすすきの叢も枯れたままに黒く立って動かず、荒涼悲惨の風景であ・・・ 太宰治 「八十八夜」
・・・省線の阿佐ヶ谷駅で降りて、南側の改札口を出た時、私は私の名を呼ばれた。二人の大学生が立っている。いずれも黄村先生のお弟子の文科大学生であって、私とは既に顔馴染のひとたちである。「やあ、君たちも。」「ええ、」若いほうの瀬尾君は、口をゆ・・・ 太宰治 「不審庵」
・・・ 家の南側に、釣瓶を伏せた井戸があるが、十時ころになると、天気さえよければ、細君はそこに盥を持ち出して、しきりに洗濯をやる。着物を洗う水の音がざぶざぶとのどかに聞こえて、隣の白蓮の美しく春の日に光るのが、なんとも言えぬ平和な趣をあたりに・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 山の南側は、太古の大地変の痕跡を示して、山骨を露出し、急峻な姿をしているのであるが、大垣から見れば、それほど突兀たる姿をしていないだろうという事は、たとえば陸地測量部の五万分一の地形図を見ても、判断する事ができる。大垣停車場から、伊吹・・・ 寺田寅彦 「伊吹山の句について」
・・・そのようなことの可能性を暗示する一つの根拠は、最大頻度方向より三十度以上の偏異を示す七匹のどれもがみんなその尾端を電線の南側に向けており、反対に北側に向けたのはただの一匹もなかったという事実である。 その翌日の正午ごろ自分たちの家の前を・・・ 寺田寅彦 「三斜晶系」
・・・東京辺と四国の南側の海岸とでは満潮の時刻は一時間くらいしか違わないし、満干の高さもそんなに違いませんが、四国の南側とその北側とでは満潮の時刻は大変に違って、ところによっては六時間も違い一方の満潮の時に他の方は干潮になる事もあります。また、内・・・ 寺田寅彦 「瀬戸内海の潮と潮流」
出典:青空文庫