・・・ 寒月の隈なく照り輝いた風のない静な晩、その蒼白い光と澄み渡る深い空の色とが、何というわけなく、われらの国土にノスタルジックな南方的情趣を帯びさせる夜、自分は公園の裏手なる池のほとりから、深い樹木に蔽われた丘の上に攀じ登って、二代将軍の・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・我を見て南方の犬尾を捲いて死ねと、かの鉄棒を脳天より下す。眼を遮らぬ空の二つに裂くる響して、鉄の瘤はわが右の肩先を滑べる。繋ぎ合せて肩を蔽える鋼鉄の延板の、尤も外に向えるが二つに折れて肉に入る。吾がうちし太刀先は巨人の盾を斜に斫って戞と鳴る・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・第一、ドンコは南方の魚で、日本では大体、琵琶湖から西方のみに棲息している。ダボハゼに似ているので、関東方面でもドンコを見たという人があるけれども、学問的にもいないことが証明されている。 魚の辞典を引いてみると、ドンコはドンコ属という独立・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・日本の本州ばかりでいっても、南方の熱い処には蜜柑やザボンがよく出来て、北方の寒い国では林檎や梨がよく出来るという位差はある。まして台湾以南の熱帯地方では椰子とかバナナとかパインアップルとかいうような、まるで種類も味も違った菓物がある。江南の・・・ 正岡子規 「くだもの」
もし私が肖像画家であったら、徳田球一氏を描くときどの点に一番苦心するだろうかと思う。例えば、徳田さんの眼は、独特である。南方風な瞼のきれ工合に特徴があるばかりでなく、その眼の動き、眼光が、ひとくちに云えば極めて精悍であるが・・・ 宮本百合子 「熱き茶色」
・・・「この電車は、南方より復員の貸切電車であります。どなたも、おのりにならないように願います」 丁度目の前でドアが開いて、七分通り満員の車内の一部が見えた。リュックをかついで、カーキの服を着て、ぼんやりした表情の人々の顔が、こちらを向い・・・ 宮本百合子 「一刻」
・・・ 現実のその苦しさから、意識を飛躍させようとして、たとえばある作家の作品に描かれているように、バリ島で行われている原始的な性の祭典の思い出や南方の夜のなかに浮きあがっている性器崇拝の彫刻におおわれた寺院の建物の追想にのがれても、結局・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・三木清という哲学者は、西田幾多郎の哲学の解説者であり、戦争中は南方に出かけたりしていた。最も進歩的な階級の哲学である唯物弁証法の哲学に対して、日本で一時大流行をした西田哲学というものは一種の観念的哲学であり、自然と社会に対する進歩的な認識を・・・ 宮本百合子 「行為の価値」
・・・ 広大なソヴェト同盟内の各地方ソヴェトは、南方でも、シベリアでも勇敢な農民パルチザンと赤衛軍との血でうちたてられたのであった。 一九一七年、一八年、そして一九年。 国内戦はまだ鎮まらない。然しソヴェトは革命の翌日から着々土地法を・・・ 宮本百合子 「五ヵ年計画とソヴェトの芸術」
・・・ 彼は南方の狭い谷底のような街を見下ろした。そこでは吐き出された炭酸瓦斯が気圧を造り、塵埃を吹き込む東風とチブスと工廠の煙ばかりが自由であった。そこには植物がなかった。集るものは瓦と黴菌と空壜と、市場の売れ残った品物と労働者と売春婦と鼠・・・ 横光利一 「街の底」
出典:青空文庫