・・・りませんか、座中の紳士貴婦人方、都育ちのお方にはお覚えはないのでありまするが、三太やあい、迷イ児の迷イ児の三太やあいと、鉦を叩いて山の裾を廻る声だの、百万遍の念仏などは余り結構なものではありませんな。南無阿弥陀仏……南無阿弥陀……南無阿弥陀・・・ 泉鏡花 「湯女の魂」
・・・寺田はもはや恥も外聞も忘れて、腫物一切にご利益があると近所の人に聴いた生駒の石切まで一代の腰巻を持って行き、特等の祈祷をしてもらった足で、南無石切大明神様、なにとぞご利益をもって哀れなる二十六歳の女の子宮癌を救いたまえと、あらぬことを口走り・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・菅笠をかむり、杖をつき、お札ばさみを頸から前にかけ、リンを鳴らして、南無大師遍照金剛を口ずさみながら霊場から霊場をめぐりあるく。 この島四国めぐりは、霊験あらたかであると云い伝えられている。 苦行をしてめぐっているうちに盲目の眼があ・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・二、三年、あるいは四、五年、そこは、はっきりしないけれども、とにかく、よっぽど後になって、ふらとそのバアへ立ち寄ったことがある。南無三、あの女給が、まだいたのである。やはり上品に、立ち働いていた。私のテエブルにも、つい寄って、にこにこ笑いな・・・ 太宰治 「俗天使」
・・・メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度・・・ 太宰治 「走れメロス」
・・・悲しい哉、老いの筋骨亀縮して手足十分に伸び申さず、わななきわななき引きしぼって放ちたる矢の的にはとどかで、すぐ目前の砂利の上にぱたりぱたりと落ちる淋しさ、お察し被下度候。南無八幡! と瞑目して深く念じて放ちたる弦は、わが耳をびゅんと撃ちて、・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・(南無大師遍照金剛というのを繰返し繰返し唱えたことも想い出す。考えてみるとそれはもう五十年の昔である。 三十年ほど前にはH博士の助手として、大湯間歇泉の物理的調査に来て一週間くらい滞在した。一昼夜に五、六回の噴出を、色々な器械を使って観・・・ 寺田寅彦 「箱根熱海バス紀行」
・・・「南無三、好事魔多し」と髯ある人が軽く膝頭を打つ。「刹那に千金を惜しまず」と髯なき人が葉巻の飲み殻を庭先へ抛きつける。隣りの合奏はいつしかやんで、樋を伝う雨点の音のみが高く響く。蚊遣火はいつの間にやら消えた。「夜もだいぶ更けた」・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・たいという未来の大願を成就したい、と思うて、処々経めぐりながら終に四国へ渡った、ここには八十八個所の霊場のある処で、一個所参れば一人喰い殺した罪が亡びる、二個所参れば二人喰い殺した罪が亡びるようにと、南無大師遍照金剛と吠えながら駈け廻った、・・・ 正岡子規 「犬」
・・・ 南無疾翔大力、南無疾翔大力。 みなの衆しばらくゆるりとやすみなされ。」 いちばん高い木の黒い影が、ばたばた鳴って向うの低い木の方へ移ったようでした。やっぱりふくろうだったのです。 それと同時に、林の中は俄かにばさばさ羽の音・・・ 宮沢賢治 「二十六夜」
出典:青空文庫