・・・といって自分のあの作が、それだけの感動に値いするものだとはけっして考えはしないのだが、第一にあの作には非常な誇張がある、けっして事実のものの記録ではないのだが、それがこの青年囚徒氏に単純な記録として読まれて、作品としての価値以上の一種の感激・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・そうした単純に正直な児がどこかにいるような気がしていた。彼にはそんなことが思われた。 それらはなにかその頃の憧憬の対象でもあった。単純で、平明で、健康な世界。――今その世界が彼の前にある。思いもかけず、こんな田舎の緑樹の蔭に、その世界は・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
・・・ 二郎がこの言葉はきわめて短くこの挙動ははなはだ単純なれど、その深き意はたやすく貴嬢の知り得ざるところなり。 なんじはげにわが友なりと二郎はわが手を堅く握りて言えり、その声はふるいぬ。われこの時二郎に向かって、よししからばわが言うを・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ お里は、善良な単純な女だった。悪智恵をかっても、彼女の方から逃げだしてしまうほどだった。その代り、妻が小心で正直すぎるために、清吉は、他人から損をかけられたり儲けられる時に、儲けそこなって歯痒ゆく思ったりすることがたび/\あった。・・・ 黒島伝治 「窃む女」
・・・はたしてそうならば、彼らは単純に死を恐怖して、どこまでもこれをさけようともだえる者ではない。彼らは、明白に意識せるといなとは別として、彼らの恐怖の原因は、別にあると思う。 すなわち、死ということにともなう諸種の事情である。その二、三をあ・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・が、彼はただ単純に、それだからといってこういう所へは来れなかった。彼は出かけることもあった。が、結局何もせずに帰った。それは普通いう「道徳的意識」からではなしに、彼の金で女の「人間として」の人格を侮辱することを苦しく思うことはもっと彼自身に・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・着物の色からして、昔は割合に単純なもので満足した。今は子供の着るものですら、黄とか紅とか言わないで、多く間色を用いるように成った。それだけ進歩して来たんだろうね」「しかし、相川君、内部も同じように進んでいるんだろうか」「無論さ」・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・つまり名といい、利といい、身といい、家という、無形、有形、単純、複雑の別はあっても、詮ずるところ自己の生という中心意義を離れては、道徳も最後の一石に徹しない。直観道学はそれを打ち消して利己以上の発足点を説こうけれども、自分らの知識は、どうも・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・私は、自身の若さに気づいた。それに気づいたときには、私はひとりで涙を流して大笑いした。 排除のかわりに親和が、反省のかわりに、自己肯定が、絶望のかわりに、革命が。すべてがぐるりと急転廻した。私は、単純な男である。 浪曼的完成もしくは・・・ 太宰治 「一日の労苦」
・・・それで何でも人からくれるものが善いものであれば何もおせっかいな詮議などはしないで単純にそれを貰って、直接くれたその人に御礼を云うのが、通例最も賢い人であり、いつでも最も幸福な人である。」 この文辞の間にはラスキンの癇癪から出た皮肉も交じ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
出典:青空文庫