・・・『一村離れて林や畑の間をしばらく行くと日はとっぷり暮れて二人の影がはっきりと地上に印するようになった。振り向いて西の空を仰ぐと阿蘇の分派の一峰の右に新月がこの窪地一帯の村落を我物顔に澄んで蒼味がかった水のような光を放っている。二人は気が・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ エジソンの最初の蓄音機は、音のために生じた膜の振動を、円筒の上にらせん形に刻んだみぞに張り渡した錫箔の上に印するもので、今から見ればきわめて不完全なものであった。ある母音や子音は明瞭に出ても、たとえばSの音などはどうしても再現ができな・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・わたくしの一生涯には独特固有の跡を印するに足るべきものは、何一つありはしなかった。 日本の歴史は少年のころよりわたくしに対しては隠棲といい、退嬰と称するが如き消極的処世の道を教えた。源平時代の史乗と伝奇とは平氏の運命の美なること落花の如・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・あたかも肉眼で遠景を見ると漠然としているが、一たび双眼鏡をかけると大きな尨大なものが奇麗に縮まって眸裡に印するようなものであります。そうしてこの双眼鏡の度を合わしてくれるのがすなわち沙翁なのであります。これが沙翁の句を読んで詩的だと感ずる所・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・眼は戸の真中を見ているが瞳孔に写って脳裏に印する影は戸ではあるまい。外の方では気が急くか、厚い樫の扉を拳にて会釈なく夜陰に響けと叩く。三度目に敲いた音が、物静かな夜を四方に破ったとき、偶像の如きウィリアムは氷盤を空裏に撃砕する如く一時に吾に・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・私も驚いて、杉浦さんが下駄論者だと仰しゃるのはどういう訳ですかと聞くと、先生の曰く、そもそも下駄は歯が二本しかない、それでいくら学校の中を下駄で歩いたところで、床に印する足跡というものは二本の歯の底だけである、しかるに靴は踵から爪先まで足の・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・人民が人民のために、人民の政治を行う民主化の方向に新しい出発の一歩を印することとなったのである。 今や、私たち日本の人民は、自分たちの払った犠牲の全貌について、やっとその真実の幾部分かずつを知りはじめた。太平洋戦争において陸軍関・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
出典:青空文庫