・・・ 父は風呂で火照った顔を双手でなで上げながら、大きく気息を吐き出した。内儀さんは座にたえないほどぎごちない思いをしているらしかった。「風呂桶をしかえたな」 父は箸を取り上げる前に、監督をまともに見てこう詰るように言った。「あ・・・ 有島武郎 「親子」
・・・の公共的な事業が発達しないとケナス人もあるが、予は、この一事ならずんばさらに他の一事、この地にてなし能わずんばさらにかの地に行くというような、いわば天下を家として随所に青山あるを信ずる北海人の気魄を、双手を挙げて讃美する者である。自由と活動・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・ と威圧するごとくに答えながら、双手を挙げて子供等を制した。栗鼠ばかりでない。あと三個も、補助席二脚へ揉合って乗ると斉しく、肩を組む、頬を合わせる、耳を引張る、真赤な洲浜形に、鳥打帽を押合って騒いでいたから。 戒は顕われ、しつけは見・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・が、同時に入露以前から二、三の露国革命党員とも交際して渠らの苦辛や心事に相応の理解を持っていても、双手を挙げて渠らの革命の成功を祝するにはまた余りに多く渠らの陰謀史や虐殺史を知り過ぎていた。 二葉亭の頭は根が治国平天下の治者思想で叩き上・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ 重吉は夢中で怒鳴った、そして門の閂に双手をかけ、総身の力を入れて引きぬいた。門の扉は左右に開き、喚声をあげて突撃して来る味方の兵士が、そこの隙間から遠く見えた。彼は閂を両手に握って、盲目滅法に振り廻した。そいつが支那人の身体に当り、頭・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・自ら生得の痴愚にあき人生の疲れを予感した末世の女人にはお身の歓びは 分ち与えられないのだろうか真珠母の船にのりアポロンの前駆で生を双手に迎えた幸運のアフロディテ *ああ、劇しい嵐。よい・・・ 宮本百合子 「海辺小曲(一九二三年二月――)」
・・・或る輝きに盲目にされて、夢中に双手を挙げて叫ぶ感激は、純粋な批評と申す事は出来ません。感激の強度と、批評的価値の高下とは綿密に考えられなければならないものではございますまいか。 けれども、私共は先ず、此の催眠させられる程烈しく湧き上る憧・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ 息をはずませながら私は叔父の袂を引っぱって一足一足と踏みしめて、漸う最後の一歩を登り切ると、其処にはひろびろと拡がった高原が双手を延ばして私共を引きあげて居た。 私は生れてから此那にも草の一杯生えた、こんなにも人の居ない林のある処・・・ 宮本百合子 「追憶」
・・・「天心たかく――まぶたひたと瞑ぢて――気澄み 風も死したり あゝ善良き日かな 双手はわが神の聖膝の上にあらむ」 天心たかく――まぶたひたと瞑ぢて――まぶたひたと瞑ぢて―― 無我の瞬時、魂は自由な飛翔をすると思う。其時・・・ 宮本百合子 「追慕」
・・・も少し精を出して大作を作り、も少し力を入れてウルサイ世人をばかにしたら吾人は双手に彼を擁したく思う。画かきさんはさらに煩わしい人事の渦中、平然としてボケ花中に眠る心持ちを保たねばならぬ。他人の神経衰弱を癒すにはまず陰気な顔をした患者を自由に・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫