・・・ 副官は双眼鏡を出してみた。「……敵ですよ。大隊長殿。……なんてこった、敵前でぼんやり腹を見せて縦隊行進をするなんて!」絶望せぬばかりに副官が云った。「中隊を止めて、方向転換をやらせましょうか。」 しかし、その瞬間、パッと煙・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・あたかも肉眼で遠景を見ると漠然としているが、一たび双眼鏡をかけると大きな尨大なものが奇麗に縮まって眸裡に印するようなものであります。そうしてこの双眼鏡の度を合わしてくれるのがすなわち沙翁なのであります。これが沙翁の句を読んで詩的だと感ずる所・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・烏の大尉は夜間双眼鏡を手早く取って、きっとそっちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠の上に、一本の栗の木が見えました。その梢にとまって空を見あげているものは、たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍りました。「があ、非常召集、・・・ 宮沢賢治 「烏の北斗七星」
・・・ほかに役所の大きな写真器械や双眼鏡も借りました。うちへ帰ると、わたくしは持っていたレコードをみんな町の古時計屋へ売ってしまいました。そして大きなへりのついたパナマの帽子と卵いろのリンネルの服を買いました。 次の朝わたくしは番小屋にすっか・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・鼻眼鏡をつけ顎に髯のあるチェホフが、独身暮しの医者が、双眼鏡をとって海上の艦隊を眺める。 町では小歌劇、蚤の見世物。クニッペルがひらひらのついた流行型のパラソルをさしてそれを女優らしく笑いながら観ている。チェホフは黒い服だ。書斎は今ラン・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
出典:青空文庫