・・・艫の処を見ると定さんが旗竿へもたれて浜の方を見ながら口笛を吹いているからそこへいって話しかける。第二中学の模様など聞いているうち船員が出帆旗を下ろしに来た。杣らしき男が艫へ大きな鋸や何かを置いたので窮屈だ。山々の草枯れの色は実に美しいと東の・・・ 寺田寅彦 「高知がえり」
・・・父親が子守り歌のようなものを歌ったり、口笛を吹いたりしても効能がない。四月十六日 喫煙室で乗客の会議が開かれた。一般の娯楽のために競技や音楽会をやる相談である。四月十七日 きのう紛失したせんたく袋がもどって来た。室のボーイの・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・馬は総身に汗をかいて、白い泡を吹いているに、乗手は鞭を鳴らして口笛をふく。戦国のならい、ウィリアムは馬の背で人と成ったのである。 去年の春の頃から白城の刎橋の上に、暁方の武者の影が見えなくなった。夕暮の蹄の音も野に逼る黒きものの裏に吸い・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 私は通りへ出ると、口笛を吹きながら、傍目も振らずに歩き出した。 私はボーレンへ向いて歩きながら、一人で青くなったり赤くなったりした。 五 私はボーレンで金を借りた。そして又外人相手のバーで――外人より入れない・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 上野の汽笛が遠くへ消えてしまッた時、口笛にしても低いほどの口笛が、調子を取ッて三声ばかり聞えると、吉里はそっと窓を開けて、次の間を見返ッた。手はいつか袂から結び文を出していた。 十一 午前の三時から始めた煤払い・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ まがり角を二つまわってもう学校も見えなくなり前にもうしろにも人は一人も居ず谷の水だけ崖の下で少し濁ってごうごう鳴るだけ大へんさびしくなりましたので耕一は口笛を吹きながら少し早足に歩きました。 ところが路の一とこに崖からからだをつき・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。三、家 ジョバンニが勢よく帰って来たのは、ある裏町の小さな家でした。その三つならんだ入口の一番左側には空箱に紫いろの・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・防波堤の下に並んで日向ぼっこをしながら、篤介がその犬に向って口笛を吹いた。犬は耳を立て此方を見たが、再び急がしそうに砂に鼻先をすりつけつつ波打ちぎわへ駆け去った。「あら、一寸こんな虫!」 陽子は、腹這いになっているふき子の目の下を覗・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・互にまともな結婚もなかなかできない下級サラリーマンとウーマンとが、自分たちのゆがめられしぼられている小さい恋の花束を眺めて、野暮に憤る代りに、肩をすくめ、目交ぜし合い、やがて口笛を吹いてゆくような新らしげな受動性。あるいは「女の心」に扱われ・・・ 宮本百合子 「新しい一夫一婦」
・・・それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気がねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。 庄兵衛は心の内に思った。これまでこの高瀬舟の宰領をしたことは幾・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫