・・・その鄰りに常夜燈と書いた灯を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。 これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・と丸き男は調子をとりて軽く銀椀を叩く。葛餅を獲たる蟻はこの響きに度を失して菓子椀の中を右左りへ馳け廻る。「蟻の夢が醒めました」と女は夢を語る人に向って云う。「蟻の夢は葛餅か」と相手は高からぬほどに笑う。「抜け出ぬか、抜け出ぬか」・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・ 突然何者か表の雨戸を破れるほど叩く。そら来たと心臓が飛び上って肋の四枚目を蹴る。何か云うようだが叩く音と共に耳を襲うので、よく聞き取れぬ。「婆さん、何か来たぜ」と云う声の下から「旦那様、何か参りました」と答える。余と婆さんは同時に表口・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ほんに世の中の人々は、一寸した一言をいうては泣き合ったり、笑い合ったりするもので、己のように手の指から血を出して七重に釘付にせられた門の扉を叩くのではない。一体己は人生というものについて何を知っているのだろう。なるほどどうやら己も一生という・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・公達に狐ばけたり宵の春飯盗む狐追ふ声や麦の秋狐火やいづこ河内の麦畠麦秋や狐ののかぬ小百姓秋の暮仏に化る狸かな戸を叩く狸と秋を惜みけり石を打狐守る夜の砧かな蘭夕狐のくれし奇楠をん小狐の何にむせけん小萩原・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・このタテタテの花というのは紫色の小さな袋のような花で、その中にある蕊を取ってそれを掌の上に並べ置き、手の脈所のところをトントンと叩くとその小さな蕊が縦に立って掌にひっついて居るのが面白いので、子供の中にこの花を見つけるといつでもこういう遊び・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
・・・ ふと表の河岸でカーンカーンと岩を叩く音がした。二人はぎょっとして聞き耳をたてた。 音はなくなった。(今頃探鉱嘉吉は豆の餅を口に入れた。音がこちこちまた起った。(この餅拵えるのは仙台領嘉吉はもうそっちを考えるのをやめて話しかけた・・・ 宮沢賢治 「十六日」
・・・ 気の毒な小鳥等は、日の出とともに眼を醒し、兎に角嘴に割れるほどの実は食べつくし、猶漁って羽叩くので、軽い粟の殼は、頼りなくぱっと飛んで床の間に落ちたのであったろう。 始めて私が見た時から、彼等はきっと、いつ餌壺が満されるのかと、情・・・ 宮本百合子 「餌」
・・・ 戸をこつこつ叩く音がする。「Entrez !」 底に力の籠った、老人らしくない声が広間の空気を波立たせた。 戸を開けて這入って来たのは、ユダヤ教徒かと思われるような、褐色の髪の濃い、三十代の痩せた男である。 お約束の ・・・ 森鴎外 「花子」
・・・何処かの酒庫からは酒桶の輪を叩く音が聞えていた。その日婦人はまた旅へ出ていった。「いろいろどうもありがとうこざいまして。」 彼女は女の子の手を持って灸の母に礼をいった。「では御気嫌よろしく。」 赤い着物の女の子は俥の幌の中へ・・・ 横光利一 「赤い着物」
出典:青空文庫