・・・「似ている人間は、天下にいくらもいます。右腕に古い刀創があるとか何とか云うのも一人に限った事ではない。君は狄青が濃智高の屍を検した話を知っていますか。」 本間さんは今度は正直に知らないと白状した。実はさっきから、相手の妙な論理と、い・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・鶴は寝ころび、右腕を両眼に強く押しあて、泣く真似をした。そうして小声で、森ちゃんごめんよ、と言った。「こんばんは。慶ちゃん。」鶴の名は、慶助である。 蚊の泣くような細い女の声で、そう言うのを、たしかに聞き、髪の逆立つ思いで狂ったよう・・・ 太宰治 「犯人」
・・・私の右腕を掴んでた男が、「こっちだ」と云いながら先へ立った。 私は十分警戒した。こいつ等三人で、五十銭やそこらの見料で一体何を私に見せようとするんだろう。然も奴等は前払で取っているんだ、若し私がお芽出度く、ほんとに何かが見られるなどと思・・・ 葉山嘉樹 「淫賣婦」
・・・ 赤シャツは右腕をあげて自分の腕時計を見て何気なく低くつぶやきました。「あいつは十五分進んでいるな。」それから腕時計の竜頭を引っぱって針を直そうとしました。そしたらさっきから仕度ができてめずらしそうにこの新らしい農夫の近くに立ってそ・・・ 宮沢賢治 「耕耘部の時計」
・・・鉢の側――右腕に肩から白毛糸のショールを巻きつけ、仰向いた胸の上にのせた手帖へ、東洋文字を縦に書いて居る。日本女の患者の室へ、大学医科三年生が男女六人医師に引率されて入って来た。 白衣の下に女子青年共産党の服をつけた赤い顔の娘が臨床記録・・・ 宮本百合子 「一九二九年一月――二月」
・・・ その左腕を内側にまわしていかにも力強く群集をその下に抱きかかえているように、又右腕の拳はぐっと前につき出して、敢て彼を侵さんとする者は何人たりとも来ってこの刑具――拳を受けよ! という風な英雄像に彫り上げられた一塊の石にしかすぎぬもの・・・ 宮本百合子 「春桃」
出典:青空文庫