・・・ 必死の、鋭い、号泣と叫喚が同時に、老人の全身から溢れた。それは、圧迫せられた意気の揚らない老人が発する声とはまるで反対な、力のある、反抗的な声だった。彼は「何をするのだ! 俺がどうして斬られるようなことをしたんだ!」と、叫んでいるよう・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・ごっとん、ごっとん、のろすぎる電車にゆられながら、暗鬱でもない、荒涼でもない、孤独の極でもない、智慧の果でもない、狂乱でもない、阿呆感でもない、号泣でもない、悶悶でもない、厳粛でもない、恐怖でもない、刑罰でもない、憤怒でもない、諦観でもない・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・そうして、自分は地獄へ行って見物して来たと宣言して、人々に見て来たあの世のさまを物語って聞かせたら聞くものひどく感動して号泣し、そうして彼はいよいよ神様だということになった。地下室にいた間は母にたのんで現世の出来事に関する詳細なノートをとっ・・・ 寺田寅彦 「ピタゴラスと豆」
・・・写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔する底の同情ではない。傍から見て気の毒の念に堪えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。 し・・・ 夏目漱石 「写生文」
・・・彼らが題せる一字一画は、号泣、涕涙、その他すべて自然の許す限りの排悶的手段を尽したる後なお飽く事を知らざる本能の要求に余儀なくせられたる結果であろう。 また想像して見る。生れて来た以上は、生きねばならぬ。あえて死を怖るるとは云わず、ただ・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・ 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
・・・イレーネの心に入ってきいてみれば、母の新しい良人に感じる憎悪を、お祖母さんが只一くちに利己主義だと云っているのをもしきいたとしたら、どんな悲しさに号泣することだろう。大人の世界の思いやりなさを憎むだろう。イレーネにすれば、利己主義と名をつけ・・・ 宮本百合子 「雨の昼」
・・・ オイオイと号泣して、彼女はよろける。「糞じじいに鼻たらし嫁なぐさませるためじゃあねえぞ!」 すると、勇吉は、粗朶火を持たない左の手で、怒り猛る仁王のようにおしまにつかみかかりながら罵りかえした。「へちゃばばあ! ええ気にな・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・私はよくその弟には殺されそうに思って号泣したくらいだったのに。 この弟は、大正九年の大暴風の日に発病してチフスから脳症になって命をおとした。この弟の生命が一刻一刻消えてゆく過程を私は息もつけないおどろきと畏れとで凝視した。その見はった眼・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・ 引きちぎったり踏み躪ったりした藁束を、憎さがあまって我ながら、どうしていいのか分らないように足蹴にしながら、水口まで来ると、お石は上り框に突伏してオイオイ、オイオイと手放しで号泣した。怨んだとて、呪ったとて、海老屋の年寄にはどうせかな・・・ 宮本百合子 「禰宜様宮田」
出典:青空文庫