・・・騒がれることなしに名人になりたい人はこれらの端役の名優となるべきであろう。 証人社長も真に迫るがこの人のはやはり役者の芸としての写実の巧みである。証人の上がる壇に蹴躓いたりするのも自然らしく見えた。これは勿論同じことを毎日繰返しているの・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 今になって、誰一人この辺鄙な小石川の高台にもかつては一般の住民が踊の名人坂東美津江のいた事を土地の誇となしまた寄席で曲弾をしたため家元から破門された三味線の名人常磐津金蔵が同じく小石川の人であった事を尽きない語草にしたような時代のあっ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・でも君あてがなくっちゃいけなかろうと、あたかもいけないような顔をして見せたら、三重吉は頬ぺたへ手をあてて、何でも駒込に籠の名人があるそうですが、年寄だそうですから、もう死んだかも知れませんと、非常に心細くなってしまった。 何しろ言いだし・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・ソコブクの一コン釣りといって、名人芸の一つにされている。私もしばしば試みたけれども、十数回のうちで、たった一度しか成功しなかった。 響灘は玄海灘とつづいているが、白島付近は魚と貝類の宝庫だ。そこへ二、三年前、一月の寒い風に吹かれながら、・・・ 火野葦平 「ゲテ魚好き」
・・・意形を全備して活たる如きものは名人の作なり。蓋し意の有無と其発達の功拙とを察し、之を論理に考え之を事実に徴し、以て小説の直段を定むるは是れ批評家の当に力むべき所たり。 二葉亭四迷 「小説総論」
・・・熊捕りの名人の淵沢小十郎がそれを片っぱしから捕ったのだ。 淵沢小十郎はすがめの赭黒いごりごりしたおやじで胴は小さな臼ぐらいはあったし掌は北島の毘沙門さんの病気をなおすための手形ぐらい大きく厚かった。小十郎は夏なら菩提樹の皮でこさえたけら・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・作品として出来上がった結果のよしあしは別として、日本などとは丁度反対で、名人気質の人がどうも少ないようです。 この私の見方は丁度、三人の按摩さんが各自思い思いに象のからだの一部を摩って見て、「象という獣は鼻のような形のものだ。」・・・ 宮本百合子 「アメリカ文士気質」
新築地の「建設の明暗」はきっと誰にとっても終りまですらりと観られた芝居であったろうと思う。 廃れてゆく南部鉄瓶工の名人肌の親方新耕堂久作が、古風な職人気質の愛着と意地とをこれまで自分の命をうちこんで来た鉄瓶作りに傾けて・・・ 宮本百合子 「「建設の明暗」の印象」
・・・もとより洋画家の内にもこの事に成功した名人は少なくないが、――そうして洋画によって成功した方が結果は偉大であると思うが、――少なくとも日本画家の方がより多くこの種の画題を選むだけ、それだけこのことが困難でないという印象を日本画家に与えている・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・元来この書は、心敬が応仁の乱を避けて武蔵野にやって来て、品川あたりに住んでいて、応仁二年に書いたものであるが、その書の末尾にいろいろな名人を数え上げ、それが皆三、四十年前の人であることを省みて、次のように慨嘆しているのである。「程なく今の世・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫