・・・ が、蔵前を通る、あの名代の大煙突から、黒い山のように吹出す煙が、渦巻きかかって電車に崩るるか、と思うまで凄じく暗くなった。 頸許がふと気になると、尾を曳いて、ばらばらと玉が走る。窓の硝子を透して、雫のその、ひやりと冷たく身に染むの・・・ 泉鏡花 「妖術」
・・・「おっかさんの名代だ、娘に着せるのに仔細ない。」「はい、……どうぞ。」 くるりと向きかわると、思いがけず、辻町の胸にヒヤリと髪をつけたのである。「私、こいしい、おっかさん。」 前刻から――辻町は、演芸、映画、そんなものの・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・総領は児供の時から胆略があって、草深い田舎で田の草を取って老朽ちる器でなかったから、これも早くから一癖あった季の弟の米三郎と二人して江戸へ乗出し、小石川は伝通院前の伊勢長といえばその頃の山の手切っての名代の質商伊勢屋長兵衛方へ奉公した。この・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・尤も一と頃倫敦の社交夫人間にカメレオンを鍾愛する流行があったというが、カメレオンの名代ならYにも勤まる。 そういえばYの衣服が近来著るしく贅沢になって来た。新裁下しのセルの単衣に大巾縮緬の兵児帯をグルグル巻きつけたこの頃のYの服装は玄関・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・かつて或る暴風雨の日に俄に鰻が喰いたくなって、その頃名代の金杉の松金へ風雨を犯して綱曳き跡押付きの俥で駈付けた。ところが生憎不漁で休みの札が掛っていたので、「折角暴風雨の中を遥々車を飛ばして来たのに残念だ」と、悄気返って頻に愚痴ったので、帳・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・日の髪結いにまで当り散らし欺されて啼く月夜烏まよわぬことと触れ廻りしより村様の村はむら気のむら、三十前から綱では行かぬ恐ろしの腕と戻橋の狂言以来かげの仇名を小百合と呼ばれあれと言えばうなずかぬ者のない名代の色悪変ると言うは世より心不めでたし・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・しかし、それにしても乗っているのが青バスであるのに、服装がどうも自分の想像している名代女優というものの服装とはぴったり符合しない。多分銘仙というのであろう。とにかくそこいらを歩いている普通十人並の娘達と同じような着物に、やはりありふれたよう・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・キングは名代を遣わして参列させ、その他ケンブリッジ大学や王立協会の主要な人々も会葬し、荘園の労働者は寺の門前に整列した。墓はターリング・プレースの花園に隣った寺の墓地の静かな片隅にある。赤い砂岩の小さな墓標には "For now we se・・・ 寺田寅彦 「レーリー卿(Lord Rayleigh)」
・・・ 三ツばかり先の名代部屋で唾壺の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸をした。 途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外沈着いていた。 平田は驚くほど蒼白た・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・ここにおいて一国衆人の名代なる者を設け、一般の便不便を謀て政律を立て、勧善懲悪の法、はじめて世に行わる。この名代を名づけて政府という。その首長を国君といい、附属の人を官吏という。国の安全を保ち、他の軽侮を防ぐためには、欠くべからざるものなり・・・ 福沢諭吉 「中津留別の書」
出典:青空文庫