・・・「何んだ手前たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込むでねえか。這入るのなら早く這入って来う」 紺のあつしをセルの前垂れで合せて、樫の角火鉢の横座に坐った男が眉をしかめながらこう怒鳴った。人間の顔――殊にどこか自分より上手な人・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・今日の小学校の教育殊に修身科の如きものに就て、教師が今までの与えられた処の概念をそのまゝ吹き込むことは何等の役にも立つものではない。例えば今日吾々の間に存在する日常の習慣や礼儀等はどれ程の価値あるものであろうか。試みに小学校の修身書を一瞥し・・・ 小川未明 「人間性の深奥に立って」
・・・ 扇風機の前で胸をひろげていたマダムの想出も、雨戸の隙間から吹き込む師走の風に首をすくめながらでは、色気も悩ましさもなく、古い写真のように色あせていた。踊子の太った足も、場末の閑散な冬のレヴュ小屋で見れば、赤く寒肌立って、かえって見てい・・・ 織田作之助 「世相」
・・・今まで蒸熱かった此一室へ冷たい夜風が、音もなく吹き込むと「夜風に当ると悪いでしょうよ、私は宜いからお閉めなさいよ、」と客なる少女、少年の病気を気にする。「何に、少しは風を通さないと善くないのよ。御用というのは欠勤届のことでしょう、」と主・・・ 国木田独歩 「二少女」
・・・それから歩いているうちに床板の透間から風が吹き込むでしょう。そうすると足がつめたくなるもんだからそういうの。「おう、つめたい。馬鹿めが煖炉に火を絶やしやあがったな」なんかんというのよ。それからどうかすると、内に帰って来て上沓・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・雪が吹き込む。つづいて二重廻しを着た男が、うしろむきになってはいって来る。どなた? どなたです。私です。かんにんして下さい。まあ、清蔵さん。どうなさったのです。(素早く寝巻きの上に、羽織をひっかけ、羽織紐どろぼうかと思っ・・・ 太宰治 「冬の花火」
・・・ このように無生の人形に魂を吹き込む芸術が人形使いの手先にばかりあるわけではない。舞台の右端から流れだす義太夫音楽の呼気がかからなければ決してあれだけの効果を生ずることはできないのはもちろんである。それかといって、人形の演技は決してこの・・・ 寺田寅彦 「生ける人形」
・・・その娘が大きくなって恋をする、といったような甘い通俗的な人情映画であるが、しかし映画的の取扱いがわりにさらさらとして見ていて気持のいい、何かしら美しい健全なものを観客の胸に吹き込むところがある。一体こうした種類の映画はもっともっと多く作られ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」
・・・なども当時の田舎の中学生にはやはり一つの新しい夢を吹き込むものであった。宮崎湖処子の「帰省」という本が出て、また別な文学の世界の存在を当時の青年に啓示した。一方では民友社で出していた「クロムウェル」「ジョン・ブライト」「リチャード・コブデン・・・ 寺田寅彦 「科学と文学」
・・・人間に対して直接にはなんらの危害を与えるものでもなし、考えようではなかなかかわいいまた美しい小動物であるのに、どうしてこれが、この虫に対しては比較にならぬほど大きくて強い人間にこうした畏怖に似た感情を吹き込むかがどうしてもわからない。 ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫