・・・息を吹き込むとヒョロヒョロと象の鼻のように伸びるおもちゃも売っている。町はたいそうな人出で巡査がおおぜい出て警戒しています。天気がよくて暖かくてなんだか東京の花見時分の心持ちでした。高い家の窓から皆往来を見物している。派手な女帽子が目に立つ・・・ 寺田寅彦 「先生への通信」
・・・そのrの喉音や語尾の自然な音韻が紛れもないドイツの生粋の気分を旅客の耳に吹き込むものであった。パンとゆで玉子を買って食う。ここでおおぜい乗り込んだ人々が自分ら二人にいろんな話をしかける。言語がよくわからないと見てとってむやみにゆっくり一語一・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・いよいよ蝋管に声を吹き込む段となって、文学士は吹き込みラッパをその美髯の間に見える紅いくちびるに押し当てて器械の制動機をゆるめた。そうして驚くような大きな声で「ターカイヤーマーカーラアヽ」と歌いだした。 私はその瞬間に経験した不思議な感・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・湯げは、縁の下や垣根のすきまから冷たい風が吹き込むたびに、横になびいてはまた立ち上ります。そして時々大きな渦ができ、それがちょうど竜巻のようなものになって、地面から何尺もある、高い柱の形になり、非常な速さで回転するのを見ることがあるでしょう・・・ 寺田寅彦 「茶わんの湯」
・・・これがあの貧弱な会場の建築と対照して、そしてその中に陳列された美しいものに対するある予感を吹き込む。アリストクラシーないしブールジョアジーと芸術とのある関係を想わせる。この自動車と相対して、おそらく我が日本だけに特有な下足預り所なるものがあ・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・会場を出るとさわやかな初夏の風が上野の森の若葉を渡って、今さらのように生きていることの喜びをしみじみと人の胸に吹き込むように思われた。去年の若葉がことしの若葉によみがえるように一人の人間の過去はその人の追憶の中にはいつまでも昔のままによみが・・・ 寺田寅彦 「庭の追憶」
・・・法律の条文を暗記させるように教え込むべきものではなくて、自然の不思議への憧憬を吹き込む事が第一義ではあるまいか。これには教育者自身が常にこの不思議を体験している事が必要である。既得の知識を繰り返して受け売りするだけでは不十分であ・・・ 寺田寅彦 「化け物の進化」
・・・ これに聯関して起る問題は科学の基礎や方法に関する事柄を初学者に吹き込む事の可否である。中学校で物理学を教える場合に、方則の成立や意義や弱点を暗示するのは却って迷いを生じ誤解を起すという説もある。自分は教育家でないが、ただ自分一己の経験・・・ 寺田寅彦 「方則について」
・・・ 雪は紛々として勝手口から吹き込む。人達の下駄の歯についた雪の塊が半ば解けて、土間の上は早くも泥濘になって居た。御飯焚のお悦、新しく来た仲働、小間使、私の乳母、一同は、殿様が時ならぬ勝手口にお出での事とて戦々恟々として、寒さに顫えながら・・・ 永井荷風 「狐」
・・・余が想像の糸をここまでたぐって来た時、室内の冷気が一度に背の毛穴から身の内に吹き込むような感じがして覚えずぞっとした。そう思って見ると何だか壁が湿っぽい。指先で撫でて見るとぬらりと露にすべる。指先を見ると真赤だ。壁の隅からぽたりぽたりと露の・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
出典:青空文庫