・・・ 書生は呆気にとられたなり、思わず彼女の顔を見つめました。やっと木樵りを突き離した彼女は美しい、――というよりも凜々しい顔に血の色を通わせ、目じろぎもせずにこう言うのです。「わたしはこの倅のために、どの位苦労をしたかわかりません。け・・・ 芥川竜之介 「女仙」
・・・それから呆気にとられている田中君を一人後に残して、鮮な瓦斯の光を浴びた青物の中へ足を入れた。しかもついにはその華奢な指を伸べて、一束四銭の札が立っている葱の山を指さすと、「さすらい」の歌でもうたうような声で、「あれを二束下さいな。」と云・・・ 芥川竜之介 「葱」
・・・私は葉巻を口へ啣えたまま、呆気にとられて見ていましたが、書物はうす暗いランプの光の中に何冊も自由に飛び廻って、一々行儀よくテエブルの上へピラミッド形に積み上りました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初来たのから動き出して・・・ 芥川竜之介 「魔術」
・・・泰さんは何が何やら、まるで煙に捲かれた体で、しばらくはただ呆気にとられていましたが、とにかく、言伝てを頼まれた体なので、「よろしい。確かに頼まれました。」と云ったきり、よくよく狼狽したのでしょう。麦藁帽子もぶら下げたまま、いきなり外へ飛び出・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・彼はむしろ呆気に取られて思わず父の顔を見た。泣き笑いと怒りと入れ交ったような口惜しげな父の眼も烈しく彼を見込んでいた。そして極度の侮蔑をもって彼から矢部の方に向きなおると、「あなたひとつお願いしましょう、ちょっと算盤を持ってください」・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ あっと呆気に取られていると、「鉄棒の音に目をさまし、」 じゃらんとついて、ぱっちりと目を開いた。が、わが信也氏を熟と見ると、「おや、先生じゃありませんか、まあ、先生。」「…………」「それ……と、たしか松村さん。」・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・ 斉しく左右へ退いて、呆気に取られた連の両人を顧みて、呵々と笑ってものをもいわず、真先に立って、 鞭声粛々!―― 題目船 七「何じゃい。」と打棄ったように忌々しげに呟いて、頬冠を取って・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ きびらを剥いで、すっぱりと脱ぎ放した。畚褌の肥大裸体で、「それ、貴方。……お脱ぎなすって。」 と毛むくじゃらの大胡座を掻く。 呆気に取られて立すくむと、「おお、これ、あんた、あんたも衣ものを脱ぎなさい。みな裸体じゃ。そ・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・畳も急に暗くなって、客は胴震いをしたあとを呆気に取られた。 ……思えば、それも便宜ない。…… さて下りる階子段は、一曲り曲る処で、一度ぱっと明るく広くなっただけに、下を覗くとなお寂しい。壁も柱もまだ新しく、隙間とてもないのに、薄い霧・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・揃って真紅な雪が降積るかと見えて、それが一つ一つ、舞いながら、ちらちらと水晶を溶いた水に揺れます。呆気に取られて、ああ、綺麗だ、綺麗だ、と思ううちに、水玉を投げて、紅の※を揚げると、どうでしょう、引いている川添の家ごとの軒より高く、とさかの・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
出典:青空文庫