・・・ 妙子は遠藤の胸に凭れながら、呟くようにこう言いました。「計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ」「そんなことがあるものですか。私と一しょにいらっしゃい。今度しくじったら大変です」「だってお婆さんがいるでしょう?」・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・青い煙草の煙が、鼻眼鏡を繞って消えてしまうと、その煙の行方を見送るように、静に眼を本間さんから離して、遠い空間へ漂せながら、頭を稍後へ反らせてほとんど独り呟くように、こんな途方もない事を云い出した。「細かい事実の相違を挙げていては、際限・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ 道祖神は、ちょいと語を切って、種々たる黄髪の頭を、懶げに傾けながら不相変呟くような、かすかな声で、「清くて読み奉らるる時には、上は梵天帝釈より下は恒河沙の諸仏菩薩まで、悉く聴聞せらるるものでござる。よって翁は下賤の悲しさに、御身近・・・ 芥川竜之介 「道祖問答」
・・・と云おうとすると、襖を隔てた次の間から、まるで蟇が呟くように、「どなたやらん、そこな人。遠慮のうこちへ通らっしゃれ。」と、力のない、鼻へ抜けた、お島婆さんの声が聞えました。そこな人も凄じい。お敏を隠した発頭人。まずこいつをとっちめて、――と・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・さて草臥れば、別荘の側へ帰って独で呟くような声を出して居た。 冬の夜は永い。明別荘の黒い窓はさびしげに物音の絶えた、土の凍た庭を見出して居る。その内春になった。春と共に静かであった別荘に賑が来た。別荘の持主は都会から引越して来た。その人・・・ 著:アンドレーエフレオニード・ニコラーエヴィチ 訳:森鴎外 「犬」
・・・ と呟くがごとくにいいて、かかる時、かかる出会の度々なれば、わざとには近寄らで離れたるままに横ぎりて爺は去りたり。「千ちゃん。」「え。」 予は驚きて顧りぬ。振返れば女居たり。「こんな処に一人で居るの。」 といいかけて・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ 甘谷が呆れて呟く、……と寂然となる。 寂寞となると、笑ばかりが、「ちゃはははは、う、はは、うふ、へへ、ははは、えへへへへ、えッへ、へへ、あははは、うは、うは、うはは。どッこい、ええ、チ、ちゃはは、エ、はははは、ははははは、うッ・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・ 麦藁と、不精髯が目を見合って、半ば呟くがごとくにいう。「いいんですよ、構いませんから。」 この時、丸太棒が鉄のように見えた。ぶるぶると腕に力の漲った逞しいのが、「よし、石も婉軟だろう。きれいなご新姐を抱くと思え。」 と・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ておくが、髪の型は変えることが出来ても、頭の型まで変えられぬぞと言ってやろうと思ったが、ふと鏡にうつった呉服屋の番頭のような自分の頭を見ると、何故か意気地がなくなってしまって、はあさよかと不景気な声で呟くよりほかに言葉も出なかった。 事・・・ 織田作之助 「髪」
・・・ 道子はそう呟くと、姉の遺骨のはいった鞄を左手に持ちかえて、そっと眼を拭き、そして、錬成場にあてられた赤坂青山町のお寺へ急ぐために、都電の停留所の方へ歩いて行った。 織田作之助 「旅への誘い」
出典:青空文庫