・・・ 陳はほとんど呻くように、なつかしい妻の名前を呼んだ。 するとその途端である。高い二階の室の一つには、意外にも眩しい電燈がともった。「あの窓は、――あれは、――」 陳は際どい息を呑んで、手近の松の幹を捉えながら、延び上るよう・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ やがて仁右衛門は呻くように斧を一寸動かして妻を呼んだ。 彼れは妻に手伝わせて馬の皮を剥ぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて裸身にされて藁の上に堅くなって横わった。白い腱と赤・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・と蚊の呻くようなる声して、ぶつぶついうその音調は、一たび口を出でて、唇を垂れ蔽える鼻に入ってやがて他の耳に来るならずや。異様なる持主は、その鼻を真俯向けに、長やかなる顔を薄暗がりの中に据え、一道の臭気を放って、いつか土間に立ってかの杖で土を・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・ 殺した声と、呻く声で、どたばた、どしんと音がすると、万歳と、向二階で喝采、ともろ声に喚いたのとほとんど一所に、赤い電燈が、蒟蒻のようにぶるぶると震えて点いた。 七 小春の身を、背に庇って立った教授が、見ると・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ マルは呻くような声を出しながら、主人の方へ忍んで来たが、やがて掻き付いて嬉しげに尻尾を振って見せた。この長く飼われた犬は、人の表情を読むことを知っていた。おせんが見えなく成った当座なぞは、家の内を探し歩いて、ツマラナイような顔付をして・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・ などと言いまして、がたがた震えている事もあり、眠ってからも、うわごとを言うやら、呻くやら、そうして翌る朝は、魂の抜けた人みたいにぼんやりして、そのうちにふっといなくなり、それっきりまた三晩も四晩も帰らず、古くからの夫の知合いの出版のほ・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・と顔を伏せ、呻くような、歔欷なさるような苦しげの声で言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集っておのおの、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、罵り騒ぎ、あの人は死ぬる人・・・ 太宰治 「駈込み訴え」
・・・翌る朝、朝ごはんを食べながら、呻くばかりでありました。くだらない手紙を差し上げた事を、つくづく後悔しはじめたのです。出さなければよかった。取返しのつかぬ大恥をかいた。たった一夜の感傷を、二十年間の秘めたる思いなどという背筋の寒くなるような言・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・提燈持ちは、アアメンと呻く。私は噴き出した。 救世軍。あの音楽隊のやかましさ。慈善鍋。なぜ、鍋でなければいけないのだろう。鍋にきたない紙幣や銅貨をいれて、不潔じゃないか。あの女たちの図々しさ。服装がどうにかならぬものだろうか。趣味が悪い・・・ 太宰治 「苦悩の年鑑」
・・・三歳のネロをひしと抱きしめ、助かった、ドミチウスや、私たちは助かったのだよ、と呻くがごとく囁き、涙と接吻でネロの花顔をめちゃめちゃにした。 その喜びも束の間であった。実の兄、カリギュラ王の発狂である。昨日のやさしき王は、一朝にしてロオマ・・・ 太宰治 「古典風」
出典:青空文庫