・・・ 威をもって制することならずと見たる、お通は少しく気色を和らげ、「しかしねえ、お前、そこには人情というものがあるわね。まあ、考えてみておくれ。一昨日の晩はじめて門をお敲きなすってから、今夜でちょうど三晩の間、むこうの麻畑の中に隠れて・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・鋭い悲哀を和らげ、ほかほかと心を怡します快感は、同時に重っ苦しい不快感である。この不快感は日光浴の済んだあとなんとも言えない虚無的な疲れで病人を打ち敗かしてしまう。おそらくそれへの嫌悪から私のそうした憎悪も胚胎したのかもしれないのである。・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・何ぞと言葉を和らげて聞けば、上等室の苅谷さんからこれを貴方へ、と差出す紙包あくれば梨子二つ。有難しとボーイに礼は云うて早速頂戴するに半分ばかりにして胸つかえたれば勿体なけれど残りは窓から外へ投げ出してまた横になれば室内ようやく暗く人々の苦に・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・或る地方の好色男子が常に不品行を働き、内君の苦情に堪えず、依て一策を案じて内君を耶蘇教会に入会せしめ、其目的は専ら女性の嫉妬心を和らげて自身の獣行を逞うせんとの計略なりしに、内君の苦情遂に止まずして失望したりとの奇談あり。天下の男子にして女・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・其顔色を和らげ其口調を緩かにし、要は唯条理を明にして丁寧反覆、思う所を述ぶるに在るのみ。即ち女子の品位を維持するの道にして、大丈夫も之に接して遜る所なきを得ず。世間に所謂女学生徒などが、自から浅学寡聞を忘れて、差出がましく口を開いて人に笑わ・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・いいや、行くように云われて来たんだ、さあ通してお呉れ、いいや僕たちこそ大循環なんだ、よくマークを見てごらん、大循環と云われると大抵誰でも一寸顔いろを和らげてマークをよく見るねえ、はじめから、ああ大循環だ通してやれなんて云うものもそれぁあるよ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 貴女の御作を読むほどの者は、恐らく何人も、女性でさえも胸を和らげられるように感ずる maternal tenderness を認めずにはおれませんでしょう。 作品に漂う独特な優雅や敏感、または、人類の理想的生活に対する憧憬、現実に・・・ 宮本百合子 「野上彌生子様へ」
・・・女が小説をかくというそのことに対する非難の目は和らげられたにしても、既成の多くの婦人作家が属している中間的な社会層の経済的変動と、それにともなう社会意識の変化は、著しい。それらがまだ日常の雰囲気的なものであるにせよ、彼女たちには過去の文学の・・・ 宮本百合子 「婦人作家」
・・・ 孫アリョーシャの誕生は、一時、気狂いのように荒々しく慾張りな、カシーリン爺さんの心持をも和らげたように見えた。若い夫婦は老人の家へ来て暫く一緒に暮したが、確かりしたマクシムに対するワーリャの兄弟共ミハイロとヤーコブの嫉妬が恐ろしい奸計・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
・・・父の頭は大きくて、暖かく禿げていて、体温にとけ和らげられたオー・ド・キニーヌの匂いがいつも微かにしているのであった。 これが最後で、会わない八ヵ月の後、父は不意に、しかも日頃私が一番心配し、また避けたく思っていた事情の下で生涯を終った。・・・ 宮本百合子 「わが父」
出典:青空文庫