・・・ という一言が、彼を悪の華の咲く園に追いやり、太陽の光線よりも夜光虫の光にあこがれさせてしまわないとは、断言できない。「復員の荷物みたいなもン、一つもないぜ」 係員は棚の荷物をちらと見廻して言った。「しかし、預けたことはたし・・・ 織田作之助 「夜光虫」
桜の樹の下には屍体が埋まっている! これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。・・・ 梶井基次郎 「桜の樹の下には」
自分がその道を見つけたのは卯の花の咲く時分であった。 Eの停留所からでも帰ることができる。しかもM停留所からの距離とさして違わないという発見は大層自分を喜ばせた。変化を喜ぶ心と、も一つは友人の許へ行くのにMからだと大変大廻りになる・・・ 梶井基次郎 「路上」
・・・と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されて・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・昔伊勢の国で冬咲の桜を見て夢庵が、冬咲くは神代も聞かぬ桜かな、と作ったのは、伊勢であったればこそで、かように本歌を取るが本意である、毛利大膳が神主ではあるまいし、と笑ったということである。紹巴もこの人には敵わない。光秀は紹巴に「天が下しる五・・・ 幸田露伴 「魔法修行者」
・・・薫は、春咲く蘭に対して、秋蘭と呼んで見てもいいもので、かれが長い冬季の霜雪に耐えても蕾を用意するだけの力をもった北のものなら、これは激しい夏の暑さを凌いで花をつける南のものだ。緑も添い、花も白く咲き出る頃は、いかにも清い秋草の感じが深い。こ・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・路傍に咲く山つつじでも、菫でも、都会育ちの末子を楽しませた。登れば登るほど青く澄んだ山の空気が私たちの身に感じられて来た。旧い街道の跡が一筋目につくところまで進んで行くと、そこはもう私の郷里の入り口だ。途中で私は森さんという人の出迎えに来て・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・ずらしくその日、俄雨があり、夫は、リュックを背負い靴をはいて、玄関の式台に腰をおろし、とてもいらいらしているように顔をしかめながら、雨のやむのを待ち、ふいと一言、「さるすべりは、これは、一年置きに咲くものかしら。」 と呟きました。・・・ 太宰治 「おさん」
・・・吉祥寺の家は、実姉とその旦那さんとふたりきりの住居で、かれがそこの日当りよすぎるくらいの離れ座敷八畳一間を占領し、かれに似ず、小さくそそたる実の姉様が、何かとかれの世話を焼き、よい小説家として美事に花咲くよう、きらきら光るストオヴを設備し、・・・ 太宰治 「喝采」
・・・あるいはこの花の咲く瞬間に放散する匂いではあるまいか。そんなことを話しながら宿のヴェランダで子供らと、こんな処でなければめったにする機会のないような話をするのである。 時候は夏でも海抜九百メートル以上にはもう秋が支配している。秋は山から・・・ 寺田寅彦 「浅間山麓より」
出典:青空文庫