・・・しかしこんな事は、金沢の目貫の町の商店でも、経験のある人だから、気短にそのままにしないで、「誰か居ませんか、」と、もう一度呼ぶと、「はい、」とその時、媚かしい優しい声がして、「はい、」と、すぐに重ね返事が、どうやら勢がなく、弱々しく聞えたと・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・そこで屋台店の亭主から、この町で最も忙しい商店の名を聞いて、それへ行って小僧でも下男でもいいから使ってくれと頼んだ。先方はむろん断った。いろいろ窮状を談して執念く頼んでみたが、旅の者ではあり、なおさら身元の引受人がなくてはときっぱり断られて・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・京都で一番賑かな四条通、河原町通の商店の資本は、敗戦後たいてい大阪商人から出ているという話である。 最近、四条河原町附近の土地を、五百万円の新円で買い取った大阪の商人がいるという。 焼けても、さすがに大阪だったのだ。――という眼でみ・・・ 織田作之助 「大阪の憂鬱」
・・・正作は五郎のために、所々奔走してあるいは商店に入れ、あるいは学僕としたけれど、五郎はいたるところで失敗し、いたるところを逃げだしてしまう。 けれども正作は根気よく世話をしていたが、ついに五郎を自分のそばに置き、種々に訓戒を加え、西国立志・・・ 国木田独歩 「非凡なる凡人」
・・・ 兵士は、その殆んどすべてが、都市の工場で働いていた者たちか、或は、農村で鍬や鎌をとっていた者たちか、漁村で働いていた者たちか、商店で働いていた者たちか、大工か左官の徒弟であった者たちか、そういう青年たちばかりだ。小学校へ行っている時分・・・ 黒島伝治 「入営する青年たちは何をなすべきか」
・・・官省、学校、病院、会社、銀行、大商店、寺院、劇場なぞ、焼失したすべてを数え上げれば大変です。中でも五〇万冊の本をすっかり焼いた帝国大学図書館以下、いろいろの官署や個人が二つとない貴重な文書なぞをすっかり焼いたのは何と言っても残念です。大学図・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・ この土地は、東京の郊外には違いありませんが、でも、都心から割に近くて、さいわい戦災からものがれる事が出来ましたので、都心で焼け出された人たちは、それこそ洪水のようにこの辺にはいり込み、商店街を歩いても、行き合う人の顔触れがすっかり全部・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・自動車屋、会社の購買、商店等をまわり、一種の御用聞きをつとめるのです。大抵は鼻先で追い返されますし、ヘイヘイもみ手で行かねばならないので、意気地ない話ですが、イヤでたまりません。それだけならいいんですが、地方の出張所にいる連中、夫婦ものばか・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・寒山拾得の類の、私の姿が、商店の飾窓の硝子に写る。私の着物は、真赤に見えた。米寿の祝いに赤い胴着を着せられた老翁の姿を思い出した。今の此のむずかしい世の中に、何一つ積極的なお手伝いも出来ず、文名さえも一向に挙らず、十年一日の如く、ちびた下駄・・・ 太宰治 「服装に就いて」
・・・路側のさまざまの商店やら招牌やらが走馬燈のように眼の前を通るが、それがさまざまの美しい記憶を思い起こさせるので好い心地がするのであった。 お茶の水から甲武線に乗り換えると、おりからの博覧会で電車はほとんど満員、それを無理に車掌のいる所に・・・ 田山花袋 「少女病」
出典:青空文庫