・・・とやっていた。しかし彼の古いティンダル効果の研究はいつのまにか現在物理学の前線へ向かってひそかにからめ手から近づきつつあった。研究資金にあまり恵まれなかった彼は「分光器が一つあるといいがなあ」と嘆息していた。そうして、やっと分光器が手に入っ・・・ 寺田寅彦 「時事雑感」
・・・ 息子は枕許で、嘆息と一緒に云った。 六 善ニョムさんが擲りつけた断髪娘は、地主の二番目娘で、二三日前東京から帰っているのだった。それが飼犬と一緒に散歩に出たのを、とっさんに腰がたたないほど、天秤棒で擲られたのだ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ 質屋の店を出て、二人は嘆息しながら表通を招魂社の鳥居の方へと歩いて行った。万源という料理屋の二階から酔客の放歌が聞える。二人は何というわけとも知らず、その方へと歩み寄ったが、その時わたしはふと気がついて唖々子の袖を引いた。万源の向側な・・・ 永井荷風 「梅雨晴」
・・・どうすることもできない、実に困ったと嘆息するだけで極めて悲観的の結論であります。こんな結論にはかえって到着しない方が幸であったのでしょう。真と云うものは、知らないうちは知りたいけれども、知ってからはかえってアア知らない方がよかったと思う事が・・・ 夏目漱石 「現代日本の開化」
・・・その辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、阿片の夢のように逍遥っていた。彼らの姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼ら・・・ 萩原朔太郎 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」
・・・と、吉里もうつむいて歎息する。「だがね、吉里さん、私しゃもうこれでいいんだ。お前さんとこうして――今朝こうして酌をしてもらッて、快い心持に酔ッて去りゃ、もう未練は残らない。昨夜の様子じゃ、顔も見せちゃアもらえまいと思ッて、お前さんに目ッ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・我輩は直ちにその人を咎めずして、我が習俗の不取締にして人心の穎敏ならざるを歎息する者なり。これを要するに、今の紳士も学者も不学者も、全体の言行の高尚なるにかかわらず、品行の一点においては、不釣合に下等なる者多くして、俗言これを評すれば、御座・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ほんとにわたしはなにも考えずにただ家の中で働いて来たばっかりだよ、という母の歎息を、若い世代がくりかえしたいと思っていないならば、そして、時間がなくて、ものを考えるどころじゃないわよ、というこんにちの若い主婦の苦悩をくりかえしたくないのなら・・・ 宮本百合子 「新しい卒業生の皆さんへ」
・・・られて眺めていると、やがて恍惚とした眼を開てフト僕の方を御覧になって、初て気が着て嬉しいという風に、僕をソット引寄て、手枕をさせて横に寐かし、何かいおうとして言い兼るように、出そうと思う言葉は一々長い歎息になって、心に畳まってる思いの数々が・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・たとえ眠られぬ真夜中に、堅い腰掛けの上で痛む肩や背や腰を自分でどうにもできないはかなさのため、幽かな力ない嘆息が彼らの口から洩れるにしても。 私はこんな空想にふけりながら、ぼんやり乳飲み児を見おろしている母親の姿をながめ、甘えるらしく自・・・ 和辻哲郎 「停車場で感じたこと」
出典:青空文庫