・・・ 人畜を挙げて避難する場合に臨んでも、なお濡るるを恐れておった卑怯者も、一度溝にはまって全身水に漬っては戦士が傷ついて血を見たにも等しいものか、ここに始めて精神の興奮絶頂に達し猛然たる勇気は四肢の節々に振動した。二頭の乳牛を両腕の下に引・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・の挨拶を交しながらもつれて行くのが見え、私はそれがおおかた村の人が温泉へはいりにゆく灯で、温泉はもう真近にちがいないと思い込み、元気を出したのにみごと当てがはずれたことや、やっと温泉に着いて凍え疲れた四肢を村人の混み合っている共同湯で温めた・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・のみならず、夜になると、歩哨が、たびたび狼に襲われた。四肢が没してもまだ足りない程、深い雪の中を、狼は素早く馳せて来た。 狼は山で食うべきものが得られなかった。そこで、すきに乗じて、村落を襲い、鶏や仔犬や、豚をさらって行くのであった。彼・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ オンドルは、おだやかな温かみを徐ろに四肢に伝えた。虱は温か味が伝わるに従って、皮膚をごそ/\とかけずりまわった。 もう暗かった。 五時。――北満の日暮は早やかった。経理室から配給された太い、白い、不透明なローソクは、棚の端に、・・・ 黒島伝治 「前哨」
・・・ 二 病室には、汚れたキタならしい病衣の兵士たちが、窓の方に頭を向け、白い繃帯を巻いた四肢を毛布からはみ出して、ロシア兵が使っていた鉄のベッドに横たわっていた。凍傷で足の趾が腐って落ちた者がある。上唇を弾丸で横にか・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・晩には彼は眠られなかった。四肢がけだるく、腰は激しい疼くような痛みを覚えた。昔は自分の肉体など、感じないほど、五体が自由に動いたものだった。それが、今は、不思議に身体全体が、もの憂く、悩ましく、ちょっと立上るのにさえ、重々しく、厄介に感じら・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・――それで、警察に六十日居り、それから刑務所と廻ってくるうちに、俺は自分の四肢がスンなりと肥えてゆくのを感じた。俺の場合、それは運動不足からくるむくみでも何んでもなく、はじめて身体が当り前にかえって行くこの上もない健康からだった。 俺だ・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・犬はグウグウと腹の方でうなっていたが、四肢が見ているうちに、力がこもってゆくのが分った。「そらッ!」と言った。 棒頭が土佐犬を離した。 犬は歯をむきだして、前足をのばすと、尻の方を高くあげて……源吉は身体をふるわしていたが、ハッ・・・ 小林多喜二 「人を殺す犬」
・・・ おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。このうえは、かず枝を死なせてはならない。ああ、生きているように、生きているように。 四肢萎えて、起きあがることさえ容易でなかった。渾身のちからで、起き直り、木の幹に結びつけた・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・私は形而下的にも四肢を充分にのばして、そうして、今のこの私の豊沃を、いったい、誰に教えてあげようか、保田與重郎氏は涙さえ浮べて、なんどもなんども首肯いて呉れるだろう。保田のそのうしろ姿を思えば、こんどは私が泣きたくなって、 ――だんだん・・・ 太宰治 「狂言の神」
出典:青空文庫