・・・ ――これもまだ小学校にいた時分、彼は一人母につれられて、谷中の墓地へ墓参りに行った。墓地の松や生垣の中には、辛夷の花が白らんでいる、天気の好い日曜の午過ぎだった。母は小さな墓の前に来ると、これがお父さんの御墓だと教えた。が、彼はその前・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・四 僕は今年の三月の半ばにまだ懐炉を入れたまま、久しぶりに妻と墓参りをした。久しぶりに、――しかし小さい墓は勿論、墓の上に枝を伸ばした一株の赤松も変らなかった。「点鬼簿」に加えた三人は皆この谷中の墓地の隅に、――しかも同・・・ 芥川竜之介 「点鬼簿」
・・・年の暮にお墓参りをする、――それは僕の心もちに必ずしもぴったりしないものではなかった。「じゃお墓へ行きましょう。」 僕は早速外套をひっかけ、K君と一しょに家を出ることにした。 天気は寒いなりに晴れ上っていた。狭苦しい動坂の往来も・・・ 芥川竜之介 「年末の一日」
・・・自分も十五六年前までは暑中休暇で村に帰っていると、五里ほど汽車に乗ってお盆の墓参りに来たものだが、その後は一度も訪ねてなかった。父も不幸な没落後三十年ぶりで、生れ故郷の土に眠むるべく、はるばると送られてきたのだった。途中自動車の中から、昔の・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・あの小山の家の方で、墓参りより外にめったに屋外に出たことのないようなおげんに取っては、その川岸は胸一ぱいに好い空気を呼吸することの出来る場所であり、透きとおるような冷い水に素足を浸して見ることも出来る場所であった。おげんがその川岸から拾い集・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・旅行の目的は、もしも運がよかったら鯨を捕る光景が見られるというのと、もう一つは、自分の先祖のうちに一人室戸岬の東寺の住職になった人があるのでその墓参りをして来るようにという父からの命をうけていたことである。 中学校にはまだ洋服の制服など・・・ 寺田寅彦 「初旅」
・・・「奥さんのお墓参りなさいましたか」「いずれ帰るまでには……」道太は笑っていた。「私も一遍おまいりしたいと思うて」 道太はお絹の母である方のお婆さんにも、たびたびそれを言われていた。 そのお婆さんは、自分で手拍子を取りなが・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・誰も墓参りにも来ない者が遺稿の事など世話してくれる者はない。お隣の華族様も最う大分地獄馴れて蚯蚓の小便の味も覚えられたであろう。淋しいのは少しも苦にならないけれど、人が来ないので世上の様子がさっぱり分らないには困る。友だちは何として居るかし・・・ 正岡子規 「墓」
出典:青空文庫