・・・まるで濡れた壁土のような、重苦しい黄色である。この画家には草木の色が実際そう見えたのであろうか。それとも別に好む所があって、故意こんな誇張を加えたのであろうか。――私はこの画の前に立って、それから受ける感じを味うと共に、こう云う疑問もまた挟・・・ 芥川竜之介 「沼地」
・・・窓から外を見ると運動場は、処々に水のひいた跡の、じくじくした赤土を残して、まだ、壁土を溶かしたような色をした水が、八月の青空を映しながら、とろりと動かずにたたえている。その水の中を、やせた毛の長い黒犬が、鼻を鳴らしながら、ぐしょぬれになって・・・ 芥川竜之介 「水の三日」
・・・こんなに壁土も落ちているだろう。これは君、震災の時に落ちたままになっているのに違いないよ。」 僕は実際震災のために取り返しのつかない打撃を受けた年少の実業家を想像していた。それはまた木蔦のからみついたコッテエジ風の西洋館と――殊に硝子窓・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・イツだっけか忘れたが、この頃は馬鹿に忙がしいというから、何が忙がしいかと訊くと、毎日々々壁土の分析ばかりしているといった。この研究が即ち日本家屋論の一部であった。この日本食論と日本家屋論の或るものは独逸文で書かれて独逸の学界で発表されたから・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二十何日に目盛をあわせたまま埃をかぶっていた。夜更けて彼が便所へ通うと、小窓の外の屋根瓦には月光のような霜が置いている。それを見るときにだけ彼の心はほーっと明る・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・また、田舎にある自分の家は、外側に壁土をつけないものばかりだと、自慢した。また、伝うる所によれば、ホメロスは、唯一人しか下僕を持ったことがなかった。プラトンは三人。ストワ派の頭ゼノンは、唯の一人も持たなかった。 チベリウス・グラックスは・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・これが雨が一日降ると、壁土のように柔らかくなって、靴どころか、長い脛もその半ばを没してしまうのだ。大石橋の戦争の前の晩、暗い闇の泥濘を三里もこねまわした。背の上から頭の髪まではねが上がった。あの時は砲車の援護が任務だった。砲車が泥濘の中に陥・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・そうして宅へ帰ったら瓦が二、三枚落ちて壁土が少しこぼれていたが、庭の葉鶏頭はおよそ天下に何事もなかったように真紅の葉を紺碧の空の光の下に耀かしていたことであった。しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞の火事の渦巻が下町一帯に拡がりつつあ・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・そうして宅へ帰ったら瓦が二三枚落ちて壁土が少しこぼれていたが、庭の葉鶏頭はおよそ天下に何事もなかったように真紅の葉を紺碧の空の光の下にかがやかしていたことであった。しかしその時刻にはもうあの恐ろしい前代未聞の火事の渦巻が下町一帯に広がりつつ・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・おおかた葉をふるうた桜の根には取りくずした木材が乱雑に積み上げられて、壁土が白く散らばった上には落葉が乱れている。模造日本橋は跡方もなくなって両側の土堤も半ば崩れたのを子供等が駆け上り駆け下りて遊んでいる。観覧車も今は闃として鉄骨のペンキも・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
出典:青空文庫