・・・かくて日曜日の夕暮れ、詩人外より帰り来たりて、しばしが間庭の中をあなたこなたと歩み、清き声にて歌うは楽しき恋の歌ならめ。この詩人の身うちには年わかき血温かく環りて、冬の夜寒も物の数ならず、何事も楽しくかつ悲しく、悲しくかつ楽し、自ら詩作り、・・・ 国木田独歩 「星」
・・・大空晴れて星の数もよまるるばかりに、風は北よりそよぎて夕暮れの寒さに人々は身をちぢめたり。発車にはなお十分を待たざるを得ず。 この時切符を売りはじめしかば、人々みな立ちて箱の前に集まりし時、外より男女二人の客、静かに入り来たりぬ。これ松・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・村の夕暮れのにぎわいは格別で、壮年男女は一日の仕事のしまいに忙しく子供は薄暗い垣根の陰や竈の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、これはどこの田舎も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然、この人寰に投・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ まず賤しからず貴からず暮らす家の夏の夕暮れの状態としては、生き生きとして活気のある、よい家庭である。 主人は打水を了えて後満足げに庭の面を見わたしたが、やがて足を洗って下駄をはくかとおもうとすぐに下女を呼んで、手拭、石鹸、湯銭等を・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・さびしい悲しい夕暮れは譬え難い一種の影の力をもって迫ってきた。 高粱の絶えたところに来た。忽然、かれはその前に驚くべき長大なる自己の影を見た。肩の銃の影は遠い野の草の上にあった。かれは急に深い悲哀に打たれた。 草叢には虫の声がする。・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・それどころか、冬の寒い夕暮れ、わざわざ廻り路をしてその女の家を突き留めたことがある。千駄谷の田畝の西の隅で、樫の木で取り囲んだ奥の大きな家、その総領娘であることをよく知っている。眉の美しい、色の白い頬の豊かな、笑う時言うに言われぬ表情をその・・・ 田山花袋 「少女病」
・・・ 何か月か何年か、ないしは何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮れにからすうりの花に集まる蛾のように一時に飛んで来る日があるかもしれない。しかしこの大きな蛾をはたき落とすにはうちの猫では間に合わない。高射砲など常識で考えても到底頼み・・・ 寺田寅彦 「からすうりの花と蛾」
・・・ 何箇月か何年か、ないしは何十年の後に、一度は敵国の飛行機が夏の夕暮れに烏瓜の花に集まる蛾のように一時に飛んで来る日があるかもしれない。しかしこの大きな蛾をはたき落すにはうちの猫では間に合わない。高射砲など常識で考えても到底頼みになりそ・・・ 寺田寅彦 「烏瓜の花と蛾」
・・・今北海の町に来て計らずこのつつましやかな葬礼を見て、人世の夕暮れにふさわしい昔ながらの行事のさびしおりを味わうことが出来たような気がした。 〇時半の急行で札幌に向かう。北緯四十一度を越えても稲田の黄熟しているのに驚く。大沼公園はなるほど・・・ 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・山の木立ちも墓地から見おろされるふもとの田園もおりから夕暮れの空の光に照らされて、いつも見慣れた景色がかつて見たことのない異様な美しさに輝くような気がした。そうしてそのような空の光の下に無心の母なき子を抱いてうつ向いている自分自身の姿をはっ・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫