・・・ことを、盲人の眼を開かれたことを、マグダラのマリヤに憑きまとった七つの悪鬼を逐われたことを、死んだラザルを活かされたことを、水の上を歩かれたことを、驢馬の背にジェルサレムへ入られたことを、悲しい最後の夕餉のことを、橄欖の園のおん祈りのことを・・・ 芥川竜之介 「おしの」
・・・ もう夕食時はとうに過ぎ去っていたが、父は例の一徹からそんなことは全く眼中になかった。彼はかくばかり迫り合った空気をなごやかにするためにも、しばらくの休戦は都合のいいことだと思ったので、「もうだいぶ晩くなりましたから夕食にしたらどう・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ ひた急ぎに急ぐ彼には、往来を飛びまわる子供たちの群れが小うるさかった。夕餉前のわずかな時間を惜しんで、釣瓶落としに暮れてゆく日ざしの下を、彼らはわめきたてる蝙蝠の群れのように、ひらひらと通行人にかけかまいなく飛びちがえていた。まともに・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・おお、姫神――明神は女体にまします――夕餉の料に、思召しがあるのであろう、とまことに、平和な、安易な、しかも極めて奇特な言が一致して、裸体の白い娘でない、御供を残して皈ったのである。 蒼ざめた小男は、第二の石段の上へ出た。沼の干たような・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・ 時雨の雲の暗い晩、寂しい水菜で夕餉が済む、と箸も下に置かぬ前から、織次はどうしても持たねばならない、と言って強請った、新撰物理書という四冊ものの黒表紙。これがなければ学校へ通われぬと言うのではない。科目は教師が黒板に書いて教授するのを・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 座敷は二階で、だだっ広い、人気の少ないさみしい家で、夕餉もさびしゅうございました。 若狭鰈――大すきですが、それが附木のように凍っています――白子魚乾、切干大根の酢、椀はまた白子魚乾に、とろろ昆布の吸もの――しかし、何となく可懐く・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・自分が牛舎の流しを出て台所へあがり奥へ通ったうちに梅子とお手伝いは夕食のしたくにせわしく、雪子もお児もうろうろ遊んでいた、民子も秋子もぶらんこに遊んでいた。ただ奈々子の姿が見えなかった。それでも自分はあえて怪しみもせず、今井とともに門を出た・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・午後四時の間食には果物、時には駿河屋の夜の梅だとか、風月堂の栗饅頭だとかの注文をします。夕食は朝が遅いから自然とおくれて午後十一時頃になる。此時はオートミルやうどんのスープ煮に黄卵を混ぜたりします。うどんは一寸位に切って居りました。 食・・・ 梶井久 「臨終まで」
母親がランプを消して出て来るのを、子供達は父親や祖母と共に、戸外で待っていた。 誰一人の見送りとてない出発であった。最後の夕餉をしたためた食器。最後の時間まで照していたランプ。それらは、それらをもらった八百屋が取りに来・・・ 梶井基次郎 「過古」
・・・そこでは私は夕餉の時分きまって発熱に苦しむのである。私は着物ぐるみ寝床へ這入っている。それでもまだ寒い。悪寒に慄えながら秋の頭は何度も浴槽を想像する。「あすこへ漬ったらどんなに気持いいことだろう」そして私は階段を下り浴槽の方へ歩いてゆく私自・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
出典:青空文庫